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政略結婚先の帳簿を整えていたら、冷酷な辺境伯が手放してくれなくなりました  作者: ヲワ・おわり


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第七十話 今年で初めて全部合っています

雪が解け始めたのは、三月の終わりのことだった。


 山の頂から白さが少しずつ引いて、麓の方から緑が戻ってきた。城の庭にも、冬の間は枯れたまま眠っていた草が、ひっそりと芽吹いている。アリシアはその変化を、書斎の窓から毎朝確かめるのが習慣になっていた。


 あれからもう、一年が経とうとしていた。


「今年度の総括書が出来上がりました」


 アリシアは書斎の机に書類を置いた。ヴィクトールは椅子を引いて座り、表紙を手に取った。


「早いですね」


「数字が揃っていたので。今年は計算が楽でした」


 ヴィクトールは書類をめくり始めた。アリシアはその隣に立って、ページの順番を確かめながら待った。採掘収入の項目、物資費の項目、賃金総額、修繕費、ライヒェンバッハからの賠償金の受入記録。順番に目を通すヴィクトールの視線を、アリシアはどこかで追いかけていた。


 異常はない。それはわかっている。自分で全部確かめた。数字は綺麗に揃っている。でも、この人が確かめるのを見るのが、なぜか好きだった。


「収入が増えていますね」


「はい。採掘設備の改修が春に完了して、下半期の生産量が上がりました。ライヒェンバッハの件が解決してから、採掘者の定着率も改善していますし、その影響も出ていると思います」


「賃金の増額分は」


「収入の増加分の中に収まっています。来年度も同じ水準で維持できる見込みです」


 ヴィクトールはゆっくりページをめくった。数字の並びを、一列ずつ丁寧に見ていた。アリシアにはわかる。この人はこういうとき、ただ確認しているのではなく、数字の向こうにあるものを読んでいる。領地の状態、人の動き、季節の影響。数字は記録だが、この人にとっては地図でもある。


 しばらくして、ヴィクトールが顔を上げた。


「全て整合している」


「はい」


 アリシアは書類の最終ページに目をやった。一年間のすべての数字が、そこに集約されていた。帳簿の記録と、実際の収支と、報告書と。どれも一致している。一行も、一文字も、合わないものがない。


「今年で初めて、全部合っています」


 アリシアは言った。


 ヴィクトールは黙った。


 その沈黙が、何を意味するかをアリシアは知っていた。二十二年。ゲルハルトがこの城の帳簿係になってから、ずっと何かが歪んでいた。数字がずれていた。誰も気づかなかった。気づいても言えなかった。そのまま、年を重ねた。


 この書類は、その全てが終わった後の最初の、完全な一年だった。


「そうですね」


 ヴィクトールは静かに言った。それだけだった。でも、そのたった一言に、二十二年分の重さが乗っているのをアリシアは感じた。


「来年も、確認をお願いできますか」


 ヴィクトールが言った。アリシアは少し驚いた。来年、という言葉が、当然のように口から出てきた。


「はい。ここにいます」


 そう答えたとき、扉が勢いよく開いた。


「旦那様! 奥方様! 年度総括の件で——あ」


 ヴォルフが入ってきて、二人の近さに気づいて、一瞬止まった。書斎の机を挟んで向かい合うのではなく、アリシアがヴィクトールの隣に立っている。その配置が珍しかったのか、ヴォルフは表情を変えた。


「……お邪魔でしたか」


「邪魔です」とヴィクトールが言った。


 アリシアは笑った。声に出て、自然に笑った。


「ああ、よかった」とヴォルフが言った。ほっとしたような、嬉しそうな顔で。「その笑い声、いいですね。本当に」


 それから気を取り直すように背筋を伸ばした。「それで! 月次の騎士団訓練の報告書をお持ちしました。今月は新人が二名加わりまして、基礎訓練の成果が——」


 ヴォルフの声が書斎に響いた。ヴィクトールが書類を受け取り、アリシアもその隣でページに目をやった。いつもの朝だった。


 でも、いつもとは違う朝だった。


 アリシアはふと、窓の外を見た。山の麓に、緑が戻ってきている。雪が解けた後の、最初の春。


 この城に来たとき、自分には何もなかった。役割も、居場所も、期待も。ただ、形の上での存在として、ここに置かれるだけのはずだった。


 それが今は違う。仕事がある。この数字を守る役目がある。この場所がある。そして——この人が、隣にいる。


 今年で初めて、全部合っています。


 その言葉が、数字の話だけではないことを、アリシアは静かに知っていた。


 ヴォルフが一通りの報告を終えて書斎を出た後、書斎には静かさが戻った。春の光が窓から差し込んで、机の上の書類を柔らかく照らしていた。アリシアは残った書類を整えながら、ここに来てからの一年を静かに振り返った。


 父の帳場で学んだことが、ここで生きた。数字の先に人がいると教えてくれた父の言葉が、この城でも本当だった。帳簿を読むことは、場所を守ることに繋がっていた。そしてその場所が、今は自分の場所だ。


「来年度の計画書は、月末までに準備します」


 アリシアは書類を手に取り、ヴィクトールに告げた。


「お願いします」


 短い言葉だった。しかし今はその短さが温かかった。この人の言葉は短い。しかしその短さの中に、確かなものがある。


 来年も、再来年も、この場所で数字を数える。そのことが、今朝の春の光の中で、静かに決まっていた。


(了)

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

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