第六十八話 ずっと隣にいてほしかった
書斎の扉を開けると、ヴィクトールは窓のそばに立っていた。
外には朝の光が広がっていた。山の頂の白さが、昨日よりも少し濃くなっている気がした。ヴィクトールはこちらを振り向いた。机の上に書類はなかった。
「来てくれましたか」
「はい」
アリシアは部屋の中ほどで止まった。いつもと何かが違う。その感覚だけがはっきりあった。何が違うのかはわからない。ただ、この人の立ち方が、いつもと少し違う。
「話があります」
珍しい言い出し方だった。ヴィクトールはいつも、用件を先に言う。「この数字を確認してほしい」「報告書を見てほしい」。今日は違った。
アリシアは黙って待った。
「三ヶ月前」とヴィクトールは言った。「あなたがこの城に来たとき……あなたはただそこにいる存在になるのだろうと思っていた」
「ただそこに、いる?」
「役割としての妻です。形の上で存在するが、実質はない。そういうものになると思っていた」
アリシアは少し目を伏せた。そうだろう、と思った。この人に限らず、それが正直なところだっただろう。自分自身も、そのつもりで来た。
「以前の……エリーゼが亡くなって以来、それでいいと思っていた」
ヴィクトールは窓から離れ、部屋の中へ一歩踏み出した。
「あなたが書庫へ行ったと聞いたとき、正直、何をするつもりかわからなかった」
「あれは、ただの習慣で」
「そうです。あなたはそう言った」ヴィクトールが静かに言った。「ただの習慣で、誰も数えていなかった数字を数えはじめた」
アリシアは黙っていた。
「二十二年分の不正を見つけた。照合表を作った。王都での審問に耐える証拠を作った」
「それは——」
「そういう話をしているのではない」
ヴィクトールの声は、遮るというより、もっと静かだった。アリシアは口を閉じた。
ヴィクトールがまた一歩近づいた。二人の間の距離が、いつもより近くなった。
「あなたが泣いた朝のことを、覚えていますか」
アリシアの胸が動いた。書庫の小部屋で、膝を抱えて座っていた。気づいたらヴィクトールが扉のそばに立っていた。あの朝のことを、忘れたことはなかった。
「覚えています」
「あのとき」とヴィクトールは言った。「すでにわかっていました」
「……何が」
答えの代わりに、ヴィクトールはアリシアをまっすぐ見た。長い間、黙っていた。書斎は静かだった。朝の光が窓から差し込み、二人の間の空気を照らしていた。
それから、静かに言った。
「ずっと隣にいてほしかった」
アリシアは動けなかった。
言葉が部屋の中に広がって、空気になった。ヴィクトールは続けなかった。それだけで十分だというように、ただそこに立っていた。
「……いつから」
アリシアはようやく声を出した。自分の声が少し掠れていた。
「正確にはわからない。ただ、あなたが泣いていた朝——あのとき、もうわかっていた」
アリシアは自分の胸の中に、何かがゆっくりと崩れていくのを感じた。認められなくていい、必要とされなくていい、ただ役目を果たせばいい——ずっとそう思ってここにいた。その鎧が、今、静かに、完全に、落ちていった。
「私は」
声が震えそうだった。アリシアはそれをこらえなかった。
「ここにいたいです」
シンプルな言葉だった。でも、それが全部だった。
続きも順次更新されます。よろしければ次話もお付き合いください。




