表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
政略結婚先の帳簿を整えていたら、冷酷な辺境伯が手放してくれなくなりました  作者: ヲワ・おわり


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

67/70

第六十七話 夕暮れの庭

夕刻、ヴィクトールに声をかけられたのは、日が山の端にかかりはじめた頃だった。


「庭を歩かないか」


 書斎での打ち合わせを終えて廊下に出たところで、ヴィクトールが言った。アリシアは少し驚いて、それから「はい」と答えた。断る理由がない、というより、断りたくなかった。


 城の裏側に続く石畳の庭は、すでに夕の色に染まりはじめていた。西の光が低く差し込み、草の葉先が細く輝いていた。先月まで咲いていた花は終わり、今は葉だけが残っている。それでも庭は静かに美しかった。


 二人で並んで歩いた。並んで歩くのはいつのことだったか、とアリシアは思った。いつも机を挟んで向かい合うか、廊下ですれ違いに立ち話をするか。並んで同じ方向を見ながら歩くのは、こんな風に意識したことがなかった。


「山を見てください」


 ヴィクトールが遠くに目をやった。アリシアも視線を向けた。山の頂に、白いものが見えた。


「雪ですか」


「そうです。初冠雪です。来月には麓まで届くでしょう」


 山の白さは、まだほんの薄い点だった。それでも確かにそこにあった。夏の間ずっと黒々としていた山頂が、今年はじめて白く変わっている。アリシアはその変化を、しばらく眺めた。


「ここは冬、かなり寒くなるのですね」


「そうです。採掘の仕事は雪の中でも続きますが、搬送路が使えなくなる区間もある。毎年、冬前に物資の手配をまとめて行います」


「では今月中に、越冬の予算計算を先にやっておきますね」


「助かります」


 短い言葉だった。けれどその簡潔さが、この人らしかった。必要なことだけ言う。それが今は少しも冷たく感じない。慣れたのかもしれないし、あるいは何か別のことかもしれない。


 しばらく、二人とも黙って歩いた。石畳の端に植えられた木が、風もないのに葉をわずかに揺らした。


「エリーゼが死んだ翌年」


 ヴィクトールが言った。アリシアは足を止めないまま、耳を傾けた。


「この庭は、一年間手入れされなかった」


 静かな声だった。報告のように淡々としていたが、その言葉の奥に何かが入っているのをアリシアは感じた。


「ここへ来ることができなかった。彼女がよく歩いていた場所でしたから」


 アリシアは黙っていた。何か言うより、聞いている方がいい気がした。


「荒れた庭を、翌々年に整えさせました。今では職人が季節ごとに手を入れています。ただ……自分がここへ戻れるようになったのは、もう少し後のことです」


「……今は」


 アリシアはそっと聞いた。「今は、ここへ来られますか」


 ヴィクトールは庭に目をやった。夕の光が石畳を柔らかく染めていた。木の影が長く伸びている。


「来られます」


 短く、はっきりと答えた。


「時間が経ったから、ですか」


 アリシアは聞いてから、立ち入りすぎたかと思った。けれどヴィクトールは足を止め、こちらを見た。すぐには答えなかった。山の方から細い風が来て、アリシアの髪を少しだけ動かした。


「別の理由もある」


 静かに、それだけ言った。


 アリシアの胸が、奇妙な速さで脈を打った。その「別の理由」が何なのか、聞けばおそらく答えてくれる気がした。けれど聞かなかった。聞いてしまうと、何かが変わる。今この夕暮れの静けさの中に、もう少し留まっていたかった。


 二人はまた並んで歩いた。山の白さは暮れの光の中でゆっくりと薄れ、それでもまだそこにあった。


 その夜、アリシアは越冬の物資手配の計算をしながら、何度かあの会話の言葉が頭の中に戻ってくるのを感じた。


 「この庭へ戻れるようになったのは、もう少し後のことです」。エリーゼが亡くなってから一年以上が経つまで、ここに来られなかった。そして今は来られる。「別の理由もある」という言葉。


 別の理由というのが何を指すのか、アリシアには分からなかった。聞けばおそらく答えてくれただろう。しかし聞かなかった。ただ、聞いてしまうと何かが変わる気がした。今の状態を、今しばらくそのままにしておきたかった。


 窓の外は暗かった。山は見えない。しかし山は確かにそこにあって、白い頂があって、来月には麓まで雪が届く。一年の中で変わらないものと変わるものがある。季節は変わる。数字は変わらない。事実は変わらない。


 そしてこの城で過ごした月々が、変わらない事実として積み重なっている。


 アリシアはそのことを思いながら、計算書を閉じた。明日の朝、ヴィクトールに越冬の予算案を提出する。それが今できることだ。あの言葉の意味は、もう少し後で分かるかもしれない。どちらでも、今ここにいることは確かだ。


 翌朝、ヴィクトールから伝言が来た。「書斎に来てほしい」と。



 伝言を受け取ったとき、アリシアは越冬の計算書を半分まで仕上げたところだった。書斎への呼び出しは珍しくない。しかしこの朝は、何かが少し違う気がした。いつもの「報告書を持ってきてほしい」とも「数字を確認してほしい」とも言われなかった。ただ「来てほしい」とだけ。


 アリシアは計算書を机の端に置いて、書斎への廊下を歩き始めた。



 廊下の窓から見えた空は、今日も薄く曇っていた。しかし昨日より少し明るい。ノルデンの空は変わりやすい。それもこの一年で学んだことの一つだ。

続きも順次更新されます。よろしければ次話もお付き合いください。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ