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政略結婚先の帳簿を整えていたら、冷酷な辺境伯が手放してくれなくなりました  作者: ヲワ・おわり


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第六十五話 冬の準備

冬支度は、思っていたよりずっと大きな仕事だった。


 食糧の備蓄確認、暖房用の薪の積み増し、使用人の冬季シフトの見直し、外壁の補修箇所の洗い出し——それら全てを、マルタは毎年ほぼひとりで把握してきたのだと、アリシアは一緒に動いてみてはじめて知った。帳簿の上では見えていた数字が、実際の動きとして目の前に広がると、その規模が全く違って見えた。棚の奥に積まれた乾燥豆の袋、薪小屋の高さまで積まれた丸木、厨房の奥の油の瓶——数字はそれらを均して一つの記号にしてしまうが、現物にはそれぞれの重さと匂いがある。


「地下倉庫の豆の在庫が去年より少ない。冬の後半で足りなくなる可能性があります」


 アリシアが言うと、マルタは台帳をめくりながら「今月中に追加発注します」と答えた。迷いがない。長年の経験が体に入っているのだとわかった。


 二人で厨房の棚卸しをしながら、アリシアは数を声に出し、マルタがそれを帳面に書き込んでいく。最初のうちはぎこちなかったが、今は自然に役割ができていた。何週間か前まで、アリシアはこの城の暮らしの仕組みを何も知らなかった。主計担当者として帳簿だけを見ていた。今は数字の向こう側に、棚の奥の乾燥豆がある。炉の薪がある。使用人の手がある。それが見えるようになった。


「ずいぶん城の動きがわかるようになりましたね」


 マルタが言ったのは、厨房の棚卸しが終わって中庭に出たときだった。感想というより、観察を口にしたような言い方だった。


「……先生がよかったので」


 アリシアが答えると、マルタは少しだけ表情を動かした。笑ったとは言えないが、口元が微かに緩んだ。それだけでも、アリシアには十分だった。この城に来たばかりの頃、マルタの視線には探るようなものがあった。「どんな人が来たのか」という、静かな品定めのような目だった。今はそれが消えている。


 午後には薪小屋の確認もした。今年の冬は例年より厳しいかもしれないとヴォルフが言っていた。山の雪の降り始めが早く、鉱山の作業員たちも寒さ対策を早めている。それならば城内の燃料も余裕を持たせた方がいい、とアリシアが言うと、マルタは「三割増やします」と即断した。帳簿上で数字を変えるのは一行だが、実際には薪の手配先に連絡し、運搬の段取りを組み直す必要がある。マルタはそれをすでに頭の中でやってのけていた。アリシアはこの人の仕事の速さに、今日もまた感服した。


 ヴィクトールとの週次の報告会は、いつの間にか形が変わっていた。


 報告を伝え、確認を取り、次の課題を整理する。その骨格は同じだが、会話の中に余白が増えた。領地の近況を話し合う時間が生まれた。ヴィクトールが鉱山の現場で気になったことを話し、アリシアが帳簿で気づいた傾向を伝える。情報交換というより、ものを一緒に考えている、そういう時間になっていた。報告書を読み合う沈黙も、以前より落ち着いている。最初の頃は沈黙が重かった。今はそれがただの静かさになっている。


 ある夜、報告が一通り終わってから、ヴィクトールが聞いた。


「ここに来たかったのか」


 唐突な問いだった。アリシアは少し考えた。正直に答えるなら、最初は違った。政略的な縁組みで送り込まれた先がこの北の城だと知ったとき、心が弾んだとは言えない。役割があるかどうかもわからなかった。ノルデンが遠い、寒い、不便な場所だということは知っていた。それを承知で来た。


「……特別に望んでいたわけではありません。でも今は」


 アリシアは少し間を置いた。どう言えばいいかわからなかった。嘘をつく必要もなく、かといって全部を言葉にする準備もできていなかった。ただ、正直なことだけを言おうと思った。


「ここを出たいとは思いません」


 ヴィクトールは黙っていた。書類に視線を落としているようで、しかしページはめくれなかった。部屋の中で暖炉の火が小さく爆ぜた。


「……そうか」


 静かに言った。短い言葉だったが、どこかに何かが滲んでいた。否定でも確認でもなく、それを受け取った、というような言い方だった。


 三週間前、アリシアは「役割のない妻」だった。今は帳簿がある。マルタがいる。ヴォルフがいる。ヴィクトールの書斎がある。城の備蓄を一緒に確認する午後がある。何かが積み重なった。あの城門をくぐったとき、自分にここで生きる場所があるとは思っていなかった。今は、ある。それが不思議でもあり、当然のことのようでもあった。


 ふと気づくと、アリシアはこの城の冬の顔を知りたいと思っていた。来たばかりの頃には考えもしなかった。季節が変わるたびにここにいる自分を、今は自然に思い描けた。


 暖炉の火が低くなった頃、ヴィクトールが「今夜はここまでにしよう」と言った。アリシアは頷いて立ち上がった。書類を揃えながら、今夜の会話を思い返した。「ここを出たいとは思いません」と自分は言った。ヴィクトールは「そうか」と言った。それだけだった。だがその「そうか」の中に、何かがあった気がした。ただの相槌ではない。何かを受け取った人の声だった。


 翌朝、ヴォルフが書斎に来た。手に書状を持っていた。顔色が普段と違う。どこかに抑えた興奮があった。


「旦那様、奥方様、至急ご覧いただきたいものが参りました。ライヒェンバッハ侯爵家への調査が、正式に結着いたしました」


 アリシアはヴィクトールと顔を見合わせた。

続きも順次更新されます。よろしければ次話もお付き合いください。

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