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政略結婚先の帳簿を整えていたら、冷酷な辺境伯が手放してくれなくなりました  作者: ヲワ・おわり


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第六十四話 帰還

城門の前で、アリシアは空を見上げた。


 雲が低い。北の山の稜線が白みを帯びていて、雪が近いことがわかった。肌に触れる風がもう冷たく、指先が少しかじかんでいる。それでもアリシアは手袋をしていなかった。出てくるのが急だったというよりも、少しでも感覚を研ぎ澄ませていたかったのかもしれない。そんなことを意識したのは、立ってから少し経ってからだった。


 ヴォルフは隣で背筋を伸ばしたまま立っており、時折ちらと遠くを確認している。不在の十日間、彼はずっとこの城を守り続けていた。その表情には安堵が滲んでいた。アリシアも同じだった。自分でも気づかないうちに、ずっとどこかが緊張していたのだと思う。


 馬蹄の音が聞こえたのは、それからほどなくのことだった。


「来ました」


 ヴォルフが静かに言った。アリシアは視線を門の向こうへ向けた。


 石畳の先から、二頭の馬が現れた。先頭がヴィクトールだと、アリシアにはすぐにわかった。姿勢が違う。背のかたちが、この城の主のものだとわかった。近づくにつれて、顔が見えてくる。疲れているのが遠目にもわかった。目の下にかすかな影があって、顎の線が心もち削げている。それでも表情は落ち着いていた。乱れていない。この人はどんな状況でも自分を崩さない人なのだと、アリシアはあらためて思った。十日間、王都で何があったにせよ、それを外に出さない。出さないのではなく、そういう人なのだ。


 馬が止まった。ヴィクトールが降りた。


「お帰りなさいませ」


 アリシアが言うと、ヴィクトールはこちらを見た。一拍の間があった。


「ただいま」


 それだけだった。短い言葉だったが、どこかに温度があった。旅の疲れと、何かを腹に収めて帰ってきた人の声だった。ヴォルフが深々と頭を下げ、馬の世話のために騎士たちを呼んだ。城の中が小さく動き始めた。


 夕刻、書斎に灯りがともった。


 ヴィクトールは椅子に腰を落ち着けると、机の上の書類をひとつひとつ手で確認するように押さえた。アリシアはその向かいに座り、不在の十日間に整えた帳簿の束を机の端に置いた。いつもの場所に、いつものように。ただ今夜は少し違う。この椅子にヴィクトールが座っているという、その当然のことが、あらためて重さを持っていた。


「ライヒェンバッハの件を報告する」


 ヴィクトールが話し始めた。声は低かったが、はっきりしていた。


「侯爵家の商業活動は、王家の監視下に置かれることになった。ノルデンに対して動ける余地は、大幅に制限される」


「実質的に、決着したということですか」


「正式な決議には時間がかかる。だが、危険な局面は過ぎた」


 アリシアは息をついた。胸の奥で何かが静かにほどけていくような感覚があった。三ヶ月前に帳簿の異常を見つけてから、ずっとどこかに張り詰めていたものがあった。数字を追い、記録を写し、証拠を積み上げてきた。それがようやく形になって、この人が王都から持ち帰ってきた。


「不在のあいだ、問題はなかったか」


 ヴィクトールが問いかけた。アリシアは当月分の現金出納帳を差し出しながら答えた。


「ありませんでした。収支も予定通りです。先週の物資の受け取りも確認済みです。帳簿は全て現状のままです」


 ヴィクトールは帳簿を開き、数字に目を走らせた。視線が止まらない。淀みなく読む。その横顔を、アリシアはしばらく見ていた。この書斎で何百時間と並んで仕事をしてきた。それでも、この横顔を見るたびにまだ少し、胸のどこかが静かになる感じがある。


「……問題ない」


 ページを閉じながらヴィクトールが言った。それから少し間があった。


「……王都は、どうでしたか」


 アリシアは自分でも意外なことを口にしていた。実務的な話ではない問いだった。ヴィクトールがこちらを見た。何かを確かめるような目だった。


「……早く戻りたかった」


 静かにそう言った。


 アリシアは返す言葉を探したが、見つからなかった。この人が自分のことをそのように言うのを、三ヶ月一緒にいても聞いたことがなかった。感情を外に出さない人だった。それが今、こちらを見ながらはっきりと言った。何も飾らず、どこにも照れを逃がさずに。


 どこへ戻りたかったのか。アリシアはそれを聞けなかった。聞く代わりに、ただ静かに頷いた。


 少し経ってから、ヴィクトールは次の書類へ視線を移した。アリシアも帳簿を引き寄せた。話はそれきりだった。だが、何かが変わった気がした。この書斎の空気が、十日前とは少し違う。何が違うのかうまく言えない。ただ、ヴィクトールがここにいるということが、今夜は以前よりずっと確かなものとしてある。


「これを見てほしい」


 ヴィクトールが一枚の書状を差し出した。王家の紋章が押されている。アリシアは受け取り、読んだ。ライヒェンバッハ侯爵家に対する王家の調査が正式に開始されたこと、ノルデン領への商業的干渉が当面差し止められたこと、が簡潔な文体で記されていた。


「……正式な文書になっているんですね」


「ああ。これで先方は動けない」


 アリシアはもう一度その紙を見た。数字は一つも書かれていないのに、これほど重い書状がある。自分が見つけた数字の異常が、王家を動かした。その事実が、いまだに少し実感を伴わないでいた。


 窓の外では、ノルデンの山が暗い輪郭をつくっている。来月には雪が城まで下りてくる。冬が来る前に、この領地には今、ようやく静けさが戻ってきた。

続きも順次更新されます。よろしければ次話もお付き合いください。

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