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政略結婚先の帳簿を整えていたら、冷酷な辺境伯が手放してくれなくなりました  作者: ヲワ・おわり


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第六十三話 届いた手紙

手紙は短かった。


 ヴォルフが手紙を持ってきたとき、アリシアは帳簿の確認の途中だった。「領主様から」という言葉に、ペンを置いた。自分でも気づかないくらい素早く置いた。


 封を開けると、折りたたまれた紙が一枚。ヴィクトールの筆跡だった。細くて整った字。読みやすいが、温度が低い印象の字だ。彼の話し方に似ている。必要なことを必要な分だけ書く。余分な言葉を足さない。


 書かれていたのは二段落だった。


 一段落目。調査は予定通り進行している。聴聞は順調で、証拠書類への評価は高い。予定通りに帰還する。


 二段落目。城の財務記録に問題はないか。


 アリシアはその最後の行を、もう一度読んだ。


 三度読んでから、気づいたら口元が緩んでいた。


 笑ってしまった。声にならない、静かな笑いだった。王都からの公式な手紙で——調査の聴聞を終えた後に書いたであろう手紙で——財務記録のことを訊いてくる。それがひどくヴィクトールらしかった。他の人間なら「元気か」「困ったことはないか」と書くだろう。彼は財務記録を訊く。仕事の話から入る。それが彼の気にかけ方なのだと、アリシアはなぜか今日初めてそう思った。


 直接的に「心配している」とは書かない。でも、会計の仕事がうまくいっているかを確かめる。アリシアにとって仕事が大事だと知っているから、仕事の状況を訊く。


 そういう気の遣い方だった。気の遣い方に、その人間の性格が出る。ヴィクトールは感情を表に出さない。柔らかい言葉も使わない。だから「元気か」とは書かない。でも財務記録のことを訊くことで、アリシアが仕事をきちんとできているかを確認する。アリシアにとって仕事が大切なものだということを、彼はわかっている。だからそこを訊く。


 遠回りだが、それが彼の気にかけ方だ。


 アリシアはそれを理解した瞬間、胸の中に何か小さなものが灯った気がした。温かいとか、嬉しいとか、そういうはっきりした名前を付けるのはまだ難しかった。ただ、確かに何かがそこにあった。


 アリシアは机に向かい、返事を書いた。


 一段落目。調査の進行を確認した。帰還を待っている。


 書いてから「待っている」という表現が少し踏み込みすぎかと思い、「帰還を確認した」に直した。それも妙な言い方だと思い、「御報告、受け取りました」と書き直した。


 二段落目。城の財務記録に問題はない。十月の帳簿も確認済みで、異常は見られない。


 ここまでは問題なかった。事実を書いた。


 ペンが止まった。


 少し迷ってから、三段落目を書いた。


 王都でもご無理をなさらないよう。


 書いてから、その行を読んだ。変なことを書いただろうか。少しだけ考えた。消すべきかもしれない。でも、消さなかった。


 折りたたんで、封をした。


 渡す前に少し止まった。「王都でもご無理をなさらないよう」というあの一行を、もう一度頭の中で確認した。変ではないか。余計ではないか。彼が受け取ったとき、どう読むだろうか。


 ——考えすぎだ。


 そう思って、使者に渡した。手を離してしまえば、もう取り消せない。それでいいと思った。


 廊下でヴォルフとすれ違った。彼はアリシアの顔を一瞬見て、何かに気づいたような顔をした。


「何かいいことがありましたか」


「領主様からの手紙です」


「……なるほど」


 ヴォルフがにやりとした。隠す気のない、わかりやすい笑い方だった。


「何ですか、その顔は」


「いえ、何でも」


 まだ笑っていた。アリシアは少し眉を上げて彼を見た。彼は笑いをおさめようとしていたが、完全には消えていなかった。


「何でもないことはないでしょう」


「本当に何でもないですよ」


 信じられなかった。しかし追及するほどのことでもないと思い、アリシアは廊下を歩き続けた。


 自室に戻ってから、ヴィクトールのことを少し考えた。王都での彼を。聴聞の場に座っている彼を。宿の部屋でこの手紙を書いている彼を。


 食事はきちんと取っているだろうか。夜遅くまで書類を読んでいないだろうか。王都の人間は彼に対してどう接しているだろうか。礼儀正しく、しかし彼の真意を測ろうとする人間が多そうだ。彼はそういう場でも感情を見せないから、疲れていても疲れているように見えないだろう。


 ……いつから、こういうことを考えるようになったのだろう。


 他人の食事や睡眠を気にするのは、自分の習慣ではなかった。誰かの体調を心配するとか、誰かが疲れていないかと思うとか、そういうことに気を向けるほど誰かを気にかけた記憶が、最近までなかった。仕事相手の体調は、仕事に影響する範囲で気にかけた。しかしそれ以上ではなかった。


 ヴィクトールのことを考えるとき、それとは違う感覚がある。仕事への影響ではなく、彼自身への心配だ。彼が無事でいるかどうか。疲れすぎていないかどうか。それを考えているのは、自分の利益のためではない。


 なのに今、自然に考えていた。気づかないうちに、そういう人間になっていた。


 ヴィクトールは三日後に戻ってくる。予定通りに、と手紙には書いてあった。


 アリシアは帳簿を開いた。続きの確認をしなければならない。それが今日の仕事だ。数字を追っていれば考えをまとめられる。ヴィクトールのことも、城のことも、自分の感情についても、何か答えが出るわけではないのだから、今は仕事をするべきだ。


 しかし次のページに進む前に、もう一度だけ、ヴィクトールの手紙の最後の行を思い出した。城の財務記録に問題はないか。


 王都から、そんなことを訊いてくる人間がいる。


 あの一行が、どうしても少し温かかった。

続きも順次更新されます。よろしければ次話もお付き合いください。

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