第六十二話 ヴィクトールの不在
出発は朝だった。
ヴィクトールから告げられたのは前日の夜だった。「調査の聴聞に出向く必要がある。十日以内に戻る」。それだけだった。アリシアは「わかりました」と答えた。それで話は終わった。長くはなかった。特別な会話でもなかった。
なのに、翌朝起きたとき、アリシアはいつもより少し早く身支度を整えた。なぜそうしたのかは、よく考えなかった。考えると、答えが出そうで怖かった。
馬が中庭に用意されていた。ヴィクトールの馬は黒く大きかった。従者が二名、荷物を積んだ馬車が一台。出発の準備は整っていた。
アリシアが中庭に出ると、ヴィクトールはちょうど手袋を嵌めているところだった。革の手袋。旅装の上着。旅支度をした彼を見るのは初めてだった。少し違う印象だった。執務室の中にいる彼とも、書斎に座っている彼とも違う。
「見送りに来たのか」
彼が言った。問いの形だったが、咎める感じはなかった。
「出発を確認しておこうと思いました」
なぜかそういう答えになった。見送りに来たと言えばよかっただけなのに。アリシアは自分の返し方を少し妙だと思いながら、直しもしなかった。
ヴィクトールは乗馬の準備をしながら言った。
「留守の間、一人でどこかへ行くな」
「……わかっています」
「記録の確認は続けていい。わからないことがあればヴォルフに聞け」
「はい」
彼は馬の脇に立ち、手綱を持ってから、一度アリシアの方を見た。長くはなかった。一秒か二秒か。何かを確かめるような目だった。
「すぐ戻る」
短い言葉だった。しかしヴィクトールらしくない言い方だとも思った。「十日以内」でも「予定通り」でもなく、「すぐ戻る」と言った。誰かに向けて言うような言い方だった。
アリシアは「……道中、お気をつけて」と言った。
声に出してから、少し恥ずかしくなった。当たり前のことを言っただけだが、言い方がどこか柔らかすぎた気がした。しかしヴィクトールは特に何も言わず、頷いてから馬にまたがった。
城門が開いた。一行が出ていった。馬の蹄の音が石畳を叩き、それが遠くなっていった。城門がゆっくりと閉まった。
アリシアはしばらくその場に立っていた。
城が静かになった。
おかしな静けさだった。音が消えたわけではない。使用人の声もある。厨房の物音もある。風が石壁を叩く音もある。それなのに、何かひとつ欠けているような感じがした。ちょうど和音の中の一音が消えたときのような。全体の音楽がなくなるわけではないが、耳が何かを探してしまう。そういう静けさだった。
変な感じだ、とアリシアは思った。ヴィクトールがいない、ということがこれほど城の質感を変えるとは思っていなかった。彼は普段から寡黙な人間だ。廊下で頻繁に会うわけでもない。それでも「いる」という感覚は確かにあった。執務室に明かりがついている。書斎から時折、紙をめくる音がする。食事の時間にあの席に座っている。そういった存在の気配が、今日はどこにもない。
自室に戻り、財務記録の続きを広げた。今月の支出の照合だった。数字を追い始めると、集中できた。これが今の自分の仕事だ。ヴィクトールがいなくても、やることは変わらない。帳簿の数字は毎月動く。確認すべき記録は積まれている。それをひとつずつ片付けていくだけだ。
昼を過ぎたころ、廊下でマルタとすれ違った。マルタはこの城で長く働いている女性で、目が利くことは知っていた。彼女はアリシアを見て、少し目を細めた。
「すっかり落ち着かれましたね、奥方様」
アリシアは一瞬、言葉に詰まった。マルタは感情をほとんど顔に出さない女性だった。その彼女が言うのだから、社交辞令ではないはずだった。
「……そうでしょうか」
「ええ」
それだけ言って、マルタは通り過ぎた。過剰な言葉を足さない。それがかえって素直な事実の伝達に聞こえた。
落ち着いた。この城に。
いつからだろう、とアリシアは思った。いつから自分はここに「いる」ようになったのか。来たばかりのころは「いる」というより「置かれている」という感じだった。どこに行けばいいかわからない。何を話せばいいかわからない。誰も自分を必要としていないし、自分も誰かを必要としていない。そういう宙ぶらりんの感じ。
今は違う。廊下を歩くとき、迷わない。誰かと目が合ったとき、逃げない。自分の部屋に帰るとき、帰る場所があると感じる。仕事をするとき、その仕事を必要とされているとわかる。
それがいつ変わったのか、はっきりとはわからなかった。ただ確かに変わっていた。マルタがそれを言葉にしてくれた。「すっかり落ち着かれましたね」。感情のない言い方だったが、そうだからこそ信用できた。おせじではない。ただの事実だ。
二日が経ち、三日が経ち、四日目を過ぎた。ヴィクトールがいない城での暮らしは、不便ではなかった。仕事は続けられる。ヴォルフが必要なことを教えてくれる。食事は規則正しく出る。
ただ夜、書斎の前を通るとき、明かりがついていないことに気づいた。当然のことだった。当然のことなのに、その暗さが少しだけ目に残った。
五日目の夕方、ヴォルフが手紙を持ってきた。
「王都から届きました。領主様からです」
続きも順次更新されます。よろしければ次話もお付き合いください。




