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政略結婚先の帳簿を整えていたら、冷酷な辺境伯が手放してくれなくなりました  作者: ヲワ・おわり


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第六十一話 王家の返答

封蝋は王家の紋章だった。


 ヴィクトールがそれを確かめてから、封を開けた。アリシアは少し離れたところに立っていた。結果を見届けるべき立場にあると思いながらも、そこに踏み込む一歩をどう出すかわからずにいた。ヴィクトールは読みながら、表情を変えなかった。それがいつも通りであることは知っていたが、今日だけは少し気になった。


 読み終えた後、彼はアリシアに書状を差し出した。


「読め」


 アリシアは受け取った。書かれていたのは、正式な文体で書かれた短い文章だった。


 提出された証拠を受理した。ライヒェンバッハ侯爵家に対する独立調査を実施する。調査完了までの間、アリシア・ジークフリートに対する召喚状は停止される。


 読んだ。もう一度読んだ。三回目を読み始めてから、自分が同じ文章を繰り返し追っているだけだと気づいた。


「……届いたのですね」


 自分でも、少し間の抜けた言い方だと思った。しかしそれしか出てこなかった。大きな言葉を叫ぶ気持ちにもなれず、かといって無言でもいられず、ただ事実の確認を口にした。


「届いた」


 ヴィクトールが静かに言った。アリシアと同じ言葉を、確認するように繰り返した。


 沈黙があった。喜びの声を上げるような場面でも、ないような気がした。派手な勝利の形ではなかった。書類が一枚、正しい場所に届いた。それだけのことだ。しかしそのことが、どこか体の深いところに響いた。


 証拠は届いた。証拠は正しいと判断された。自分がやったことは、意味があった。


 三週間かけて積み上げた数字の束が、今日この瞬間に報われた。報われた、という感覚が新鮮だった。仕事の成果を誰かに評価してもらうことは、これまでの人生でもあった。しかし今回は規模が違う。一つの侯爵家の不正を、王家が公式に認めた。自分の手で書いた数字が、国の機関を動かした。


 それを実感するには、もう少し時間がかかりそうだった。


 ヴォルフに知らせたのはその夕方だった。彼は話を聞き終えてから、ひとことも発しないまま数秒間固まっていた。それからゆっくりと口を開いた。


「レディ・アリシア。本当にやったんですね」


「私たちがやったんです」


 言い直した。ヴィクトールがいなければ書庫への入室許可も出なかった。ヴォルフが証人として動いてくれた場面もあった。自分一人の手柄ではない。


 しかしヴォルフは「そうですね」と言いながら、どこかまだアリシアを見ていた。「でも始めたのはあなただ」と言いたげな目をしていた。口に出さなかったけれど。


 内心では、アリシアも知っていた。あの書庫での最初の一日を。誰も頼まなかった。誰も気づいていなかった。埃の積もった棚の奥から取り出した帳簿の中に見えた小さなずれ。その一点から引っ張り出してきた。夜に一人でランプを持って書庫に通い、数字を写し、表を作り、照合した。誰かに頼まれたからではなく、見えてしまったから追いかけた。


 それは確かに自分が始めたことだった。それだけは、今日は素直に認めようと思った。


 ヴィクトールから、改めて状況の説明があった。


「調査には時間がかかる。だが方向は定まった。ライヒェンバッハは今後、ノルデンに対して表立って動けない」


「それだけで、十分ですか」


「今は十分だ。完全な解決は調査の結果を待つ。だがこれで、少なくとも脅しの手段は封じられた」


 確かに、と思った。完璧な勝利ではない。ライヒェンバッハ侯爵がすぐに罰せられるわけでもなく、調査には時間がかかる。しかし「動けなくさせた」という事実が今は大きかった。手が出せないなら、脅しも成立しない。次の一手を封じた。それが今この段階で得られる最善だった。


 アリシアは自室に戻りながら、三週間前のことを考えた。


 この城に来たとき、自分は「役のない妻」だった。会計の知識はあるが、使う場がなかった。誰も必要としていなかった。自分でも、それを必要とされることに期待していなかった。ただ静かにいれば問題ないと思っていた。


 今は違う。城にある財務記録を任されている。名前を覚えてもらっている。廊下で会釈を受ける。ヴォルフが話しかけてくる。ヴィクトールが書類の内容を説明してくれる。


 それらがいつの間にかあたりまえになっていた。あたりまえになったことに、今日初めて気づいた。


 三週間でこんなに変わるとは、思っていなかった。


 この城に初めて来た日のことを思い出した。薄暗い廊下、重い扉、遠くから自分を見ている視線。この城に居場所はないとわかっていた。求められていないとわかっていた。それでも出ていくわけにもいかない。どこにも行けない人間の、静かな絶望と諦めがあった。


 今はそれがない。


 この城が「どこかよそ」から「ここ」になった瞬間がいつだったか、はっきりとはわからない。書庫で最初に数字のずれを見つけたときか。ヴィクトールが「行かせない」と言ったときか。夜明けの書斎で泣いたときか。あるいはもっと細かい、誰かの会釈や、ヴォルフの笑い声や、ランプの光の中で過ごした時間が積み重なった結果か。


 気がついたらそうなっていた。それでいいのかもしれないと、今日は思うことができた。


 ヴィクトールが来週、王都へ向かうと知らされたのはその夜だった。

続きも順次更新されます。よろしければ次話もお付き合いください。

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