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政略結婚先の帳簿を整えていたら、冷酷な辺境伯が手放してくれなくなりました  作者: ヲワ・おわり


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第六十話 嵐の前の凪

書類を発送してから、数日が経った。


 返答が来るまでの間、城は表向き静かだった。しかしアリシアには、その静けさが以前とは違う種類のものだということがわかった。以前の静けさは、息を殺したような静けさだった。今の静けさは、何かを待ちながらも地に足がついているような静けさだ。同じ沈黙でも、重さが違う。


 ヴィクトールから呼ばれたのは、四日目の午前だった。


「召喚状の対応について報告する」


 執務室で、彼はまず書類を見せた。王家への書簡と、召喚状への正式な延期申請。


「召喚状は正式に延期を申請した。証拠を王家へ提出した、という事実を理由として」


「認められますか」


「法的な猶予は生まれる。その後は王家の判断次第だ」


 淡々とした説明だった。感情を排して事実だけを述べる彼の話し方は、いつも通りだった。しかし今のアリシアには、その話し方の奥に、彼なりの慎重さがあることが少しわかるようになっていた。感情がないのではなく、感情を見せない方が場の安定に繋がると知っているのだと。


「わかりました」とアリシアは言った。「ありがとうございます」


 ヴィクトールは頷き、それ以上は何も言わなかった。


 城の変化に気づいたのは、その日の廊下だった。


 すれ違ったメイドが、目を合わせた。以前なら、さっと視線を落としていた。今日はそうしなかった。少し迷ってから、軽く頭を下げた。アリシアも同じように返した。それだけのことだったが、その小さなやりとりが妙に心に残った。


 最初にこの城へ来たころ、廊下を歩くと人々はアリシアを避けた。避けているとわかるほど露骨ではなかったが、目が合わないのはわかった。名前を呼ばれることもなかった。「奥方様」とだけ呼ばれ、それすら省略されることが多かった。自分がこの城の何者でもないということは、使用人たちの視線から伝わってきた。彼女自身も気にしていなかった。役割のない場所では目立たないのが正しいと思っていた。


 翌日も同じことがあった。別の使用人が廊下で会釈をした。台所の前を通ったとき、中から「レディ・アリシア」と名前を呼ばれた。声をかけてきたのは、顔だけ知っていて名前は知らない女性だった。


 何かが変わっていた。知っていながら、変わった理由を自分に向けるのには少し戸惑いがあった。自分が何かをしたから、とはまだ素直に思えなかった。


 ゲルハルトが拘束されて以来、城の人間がアリシアを見る目が変わったのだと、ヴォルフが教えてくれたのはその夕方だった。中庭で、ヴォルフは何でもないように言った。


「城の雰囲気が変わりましたね、レディ・アリシア」


「そう思いますか」


「あなたのおかげです」


 アリシアは首を振った。「帳簿を読んだだけです」


「それができたから変わったんですよ」


 ヴォルフは笑った。どこか温かみのある笑い方だった。「帳簿を読める人間がいた。それが証明されたことが大事なんです。城の人間は、守られているとわかったら動きが変わる」


 アリシアにはその言葉の重さが、少し時間をかけてわかった。自分は数字を追いかけていた。帳簿の不正を明らかにすることが仕事だから動いた。それだけのつもりだった。でも城の人たちにとっては、誰かが自分たちのために動いたという事実がある。数字の裏には、横領された金で支払われるはずだった給金があり、削られた食材費があり、減らされた燃料があった。それは人々の暮らしに直接触れていた。アリシアがそれに気づいていたかどうかは別として、結果として守ることになった。


 それが姿勢を変える。


 自分にそういう力があったのだと、まだ腑に落ちていなかった。会計の知識と几帳面さが、人の暮らしを変えることがある。頭ではわかっていたが、実際にそれを目の前で感じるのとは違う。


 夜、ヴィクトールと最後の確認をした。


「証拠は完全ですか」


「はい。三組の照合が完了しています」


「では、待つだけだ」


 書斎の中に沈黙が落ちた。その沈黙が重くない、ということをアリシアは感じていた。緊張を含んではいるが、張り詰めてはいない。


「……怖くありませんか」


 自分で問いながら、これはいつもの自分らしくないと思った。感情を問うことは、自分の習慣ではなかった。しかし口から出ていた。


 ヴィクトールは少し間を置いた。


「怖い?」


「はい。これほどの賭けですから」


 ヴィクトールはしばらく考えていた。窓の外の暗さを見るともなく見ながら。


「失うのが最も怖いものを、すでに失っている」


 静かな声だった。エリーゼのことだとわかった。口に出さなくても、その名前がそこにあった。あの喪失の後、彼は恐れの形が変わったのだろう。すでに最悪を知っている人間の強さは、そういう種類のものだ。


 しかしヴィクトールはそこで止まらなかった。


「……だが」


 声がほんの少し低くなった。


「今は、守りたいものがある」


 ひと言だけ、付け加えた。


 アリシアは何も言えなかった。その言葉が誰を指すのか、問う勇気がなかった。問わなくてよかった気もした。問われずに言われた言葉の方が、時に重い。


 守りたいもの、と彼は言った。そこに自分が含まれているかどうか、アリシアには確信がなかった。確信を持ってしまうことへの怖さがあった。正しく読み取れているという自信もなかった。しかし誤読していないかもしれないという感覚もあった。


 どちらとも決めずに、ただその言葉を胸の中に置いた。


 その夜遅く、使者が城の門を叩いた。王家からの返答が届いた。

続きも順次更新されます。よろしければ次話もお付き合いください。

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