第五十九話 夜明けの後
書斎の窓が白んでいた。
ランプはもう消えていた。必要なくなったから消したのではなく、油が尽きて自然に消えていた。気づいたのは部屋が明るくなってからで、消えた時刻は誰も知らない。それほど夜明けは、静かにやってきた。
発送の準備は終わっていた。書類は封をされ、紐で束ねられ、机の端に置かれている。あとはヴィクトールが手配した使者が持ち出すだけだ。アリシアはそれを見つめながら、立ち上がれずにいた。疲れていた。骨の芯まで疲れているのに、それが不快ではなかった。仕事を終えた後の疲れは、どこか清潔な感じがする。
「休め」
ヴィクトールが言った。書類を確認していた手を止めないまま。
「書類は私が送る」
一人称で言った。「使者に届けさせる」ではなく「私が」。細かい違いだったが、アリシアは聞こえていた。
「……ありがとうございます」
言ってから、何に対する感謝なのかを考えた。書類を送ることへの礼か。夜通し付き合ってくれたことへの礼か。涙を見て見ぬふりをしてくれたことへの礼か。どれかひとつに定めることができなかったので、ひとまとめにして「ありがとう」と言った。
ヴィクトールは少し間を置いた。
「礼には及ばない」
「でも、言いたいのです」
自分でも意外な返し方だった。引っ込めるつもりで口を開いたのに、逆のことを言っていた。礼には及ばないと言われたら、そうですかと頷くのが普通だ。なのに、今夜だけは、そうしたくなかった。感謝を、きちんと言葉にして置いておきたかった。
ヴィクトールが黙った。今度はもっと長い沈黙だった。
「……わかった」
短く、それだけ言った。受け取った、という意味に聞こえた。
アリシアは立ち上がった。椅子が鳴った。足が少しふらついたが、壁に手をついてこらえた。ヴィクトールは書類から目を上げなかった。気を遣っているのか、本当に気づいていないのかはわからなかった。どちらでも構わなかった。
扉のところまで歩いた。取っ手に手をかけた。
振り返った。なぜ振り返ったのかは、自分でもよくわからなかった。習慣でも礼儀でもなく、ただ振り向きたい気持ちがあった。
「領主様」
ヴィクトールが顔を上げた。
「……昨夜、なぜ傍にいてくださったのですか」
口に出してから、少し驚いた。こんなことを聞くつもりはなかった。聞けば何かが変わる気がして、避けていた問いだった。しかし今この瞬間、疲れ果てた体と朝の光の中で、するりと出てきた。
ヴィクトールはすぐには答えなかった。何かを考えているのではなく、どう言葉にするかを測っているように見えた。
しかし答えは来なかった。
「休め」
そう言った。ただそれだけ。しかし声の質が、いつもと違った。命令というよりも、もっと柔らかいもの。心配に近いなにか。
アリシアは一瞬、もう一度問い返そうとした。けれど、しなかった。ヴィクトールの声の柔らかさが、答えの代わりのようにも感じられたから。
「おやすみなさい」
そう言って、扉を閉めた。
廊下は静かだった。石の床が足の裏から冷たさを伝えてくる。早朝の城は人の気配が少なく、自分の足音だけが反響した。自室への廊下を歩きながら、アリシアは今夜のことを頭の中で辿ろうとした。しかし疲れが強すぎて、何も整理できなかった。
部屋に入った。扉を閉めた。ベッドに腰を下ろした。
眠れないかもしれないと思った。頭の中が静かすぎて、かえって眠れないかもしれないと。
次に意識があったのは、扉を叩く音がしたときだった。
「レディ・アリシア、失礼します」
ヴォルフの声だった。
窓の外は昼の光だった。アリシアは数秒、自分がどこにいるかを把握するのに時間がかかった。朝だと思っていた。いや、朝だった。それがいつのまにか昼になっていた。
「どうぞ」
掠れた声で答えた。扉が開き、ヴォルフが顔をのぞかせた。
「書類は発送されました。王都へ向かっています」
「……そうですか」
「お体の具合はいかがですか」
「疲れているだけです」
正直な答えだった。ヴォルフは頷き、それ以上は踏み込まなかった。
「領主様が、お目覚めになるまでそのままでいいと」
アリシアはその言葉を、もう一度頭の中で繰り返した。
そのままでいいと、言った。
何でもないひと言のようで、どこか染みた。自分のことをそこまで気にかける人間が、この城にいる。それがまだ、少し、信じられないような気持ちだった。
「わかりました」とアリシアは言った。「ありがとう、ヴォルフさん」
扉が閉まった。
しばらくの間、アリシアは天井を見上げていた。
昨夜のことを、少しずつ思い返した。書類の束。ランプの揺らぐ光。ヴィクトールの横顔。「終わった」というたった二文字。そして自分の頬を伝った涙のこと。
恥ずかしいとは思わなかった。むしろ、あの場で泣いたことが、どこかほんの少しだけ正しかった気がした。感情を溜め込みすぎた人間がそれを解放する場所として、夜明けの書斎はふさわしかった。見ていたのはヴィクトールだけで、彼は何も言わなかった。
傍にいた。ただそれだけだった。
扉口で聞いた問いが今もある。なぜ傍にいてくださったのですか。ヴィクトールは答えなかった。でも、「休め」と言った声の柔らかさが、答えと呼べるものに近かった気がした。近かった、と思うことにした。それ以上を求めるのは、今の自分には少し眩しすぎた。
王都への返答が届くまでには、数日かかる。それまでの間、この城は静かな待機に入る。
待つ間、何かが変わったままでいる。城の中の何かが。あるいは自分の中の何かが。それが何なのかを、アリシアはまだうまく言葉にできなかった。ただ、昨夜よりも少しだけ、この城が遠い場所でなくなったような気がした。
続きも順次更新されます。よろしければ次話もお付き合いください。




