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政略結婚先の帳簿を整えていたら、冷酷な辺境伯が手放してくれなくなりました  作者: ヲワ・おわり


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第五十八話 初めての涙

夜明けの少し前だった。


 東の空が白む前の、最後の暗さが書斎に漂っていた。ランプの炎は随分小さくなっていた。油の残りがほとんどない。揺れるたびに影が揺れ、机の上の書類が明滅するように見えた。それでも、手元の文字を読むには足りていた。足りているうちに終わらせなければ、と思いながら最後の数字を確認した。ペンで小さく丸を書き入れた。三組目の照合。完了。


 アリシアは書類の束を揃え、横へ置いた。


 ヴィクトールが静かに言った。


「終わった」


 たった二文字だった。


 アリシアはその瞬間、自分の目に何かが滲むのを感じた。


 予想していなかった。泣くつもりなど、まったくなかった。泣くという選択肢が、この数週間の自分にあるとさえ思っていなかった。なのに、その二文字が耳に届いた瞬間、まぶたの奥から熱いものが浮かび上がってきた。抑えようとした。目を動かし、息を整え、帳簿の文字に焦点を当てようとした。手の中の書類を意識した。冷たい紙の感触。羊皮紙の粗い表面。それを感じながら、平静を取り戻そうとした。


 止まらなかった。


 声は出なかった。嗚咽もなかった。ただ、涙が一粒、頬を伝った。それからもう一粒。静かに、わかりやすく、流れた。


 アリシアは俯いた。気づかれないように。恥ずかしかったわけではなかった。ただ、なぜ自分が泣いているのかが、まだよくわかっていなかった。泣く理由が整理できないまま泣いているのは、どこか不格好だと思った。感情を持て余すことに、自分はひどく不慣れだった。


「……すみません。疲れているようです」


 できる限り平静な声で言った。我ながら不出来な言い訳だと思った。実際には疲れているが、それだけではないことは自分が一番よくわかっていた。


 ヴィクトールは何も言わずに、椅子から立った。足音が近づいてきた。机の前に来て、止まった。


「それだけではない」


 静かな声だった。断言するでもなく、責めるでもなく、ただそこにある事実を口にするような言い方だった。


「……では何なのですか」


 アリシアは俯いたまま聞いた。頬の涙を拭いたかったが、今手を動かすと気づかれる気がして動けなかった。すでに気づかれているのだということは、薄々わかっていたが。


 ヴィクトールはすぐには答えなかった。アリシアの隣に立ち、そこにいた。机を隔てて向かいに立つのではなく、同じ側に、近くに。距離は肩が触れるほどではなかったが、温度がわかるくらいには近かった。その存在が、不思議なほど落ち着いた。


「よくやった」


 低く、静かな声だった。いつものヴィクトールの声より、ほんの少しだけ柔らかかった。その少しが、はっきりとわかった。


 その言葉が耳に入った瞬間、今度はもっと涙が出た。


 自分でも驚いていた。こんなに単純な言葉が、こんなにも効くとは思っていなかった。三文字。それだけ。なのに胸の奥の何かが、音を立てるように崩れた。


 三週間——帳簿を読み、パターンを見つけ、妨害を受け、一人で証拠を積み上げてきた。誰かに頼ることもせず、認めてもらうことを期待することもなく、ただ仕事として進めてきた。「認められなくていい」という鎧を着て。その鎧がどれほど重かったかを、脱ぎかけている今この瞬間に初めて知った気がした。


 誰かが「よくやった」と言ってくれる。ただそれだけのことが、こんなにも重かったのだと。


 三週間前、この城に来たとき、自分は何も必要としないと思っていた。必要とすることは弱さだと思っていた。だが今この瞬間、その思いがひびだらけになっていることに気づいた。気づいても、取り繕う気力が残っていなかった。夜明けまで働き続けた体は、感情を抑える余分な力を使い切ってしまっていた。


 アリシアはゆっくりと目を拭った。ヴィクトールは何も言わなかった。逃げるように話題を変えることも、目をそらすこともなく、ただそこにいた。それがありがたかった。慰めの言葉より、静かにそこにいてくれることの方が、ずっとありがたかった。


 やがて空が白くなった。鳥の声が遠くから届き始めた。城の石壁が朝の最初の光を受けて、灰色から薄い金色に変わった。書斎の中が、ランプなしでも物が見えるほどに明るくなった。


「書類を発送します」とヴィクトールが言った。


 アリシアは「はい」と答えた。声は最初より、ずっと落ち着いていた。


 夜明けが来た。書類は完成した。


 窓の外が明るくなっていく。数時間前まで暗かった空が、今や薄い青に変わっている。石の壁が少しずつ温度を帯びてくる。


 アリシアは書類の束を整えて、机の端に積み重ねた。ヴィクトールは発送の準備のために書斎を離れた。一人になった部屋で、アリシアはようやく椅子の背に体重を預けた。


 泣いた。生まれて初めてというわけではない。しかしこういう理由で泣いたのは初めてだった。怒りでも悲しみでもなく、何かが「終わった」という感覚から来る涙だった。三週間、一人でやってきた。書庫に入って、数字を拾って、記録して、表を作って、報告して、阻まれて、また記録した。その全部が、今夜一晩の作業で完結した。


 「それだけではない」とヴィクトールが言った。あの言葉が今もある。


 認められなくていい、と決めていた。しかしそれは嘘だったと今は分かる。ただ、認められることを期待して傷つくのが怖かっただけだ。


 夜明けの中で、アリシアはもう一度静かに息を吐いた。

続きも順次更新されます。よろしければ次話もお付き合いください。

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