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政略結婚先の帳簿を整えていたら、冷酷な辺境伯が手放してくれなくなりました  作者: ヲワ・おわり


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第五十七話 夜明けまでの作業

夜が深くなるにつれて、城は静まり返った。


 廊下の足音がなくなり、厨房の物音が消え、風だけが窓の外を通り過ぎた。書斎には二人分のランプが灯っていた。アリシアは机に三組の帳簿を並べ、数字の照合を進めていた。王都の記録、領地の収支、ゲルハルトの私的帳簿——それぞれの列を指でたどり、一致を確認し、差異があれば注記を入れた。手が慣れた動きをした。この数週間、同じ作業を繰り返してきた体が、疲れながらもきちんと動いた。


 ヴィクトールは机の向こうで、提出書状の文面を書いていた。筆を止めるたびに考える。また走らせる。その繰り返しを、声も立てずに続けていた。


 深夜になった頃、ヴィクトールが静かに言った。


「少し休め」


 アリシアは顔を上げずに答えた。「まだ大丈夫です」


「無理をするなと言った。以前も言ったことがある」


 その言葉を聞いた瞬間、アリシアの手が止まった。


 以前も、と言った。


「……廊下で、言われましたね」


 ヴィクトールが筆を止めた。アリシアは帳簿から目を上げた。


「あの夜のことですか」とヴィクトールが静かに聞いた。


「ゲルハルトの件を調べはじめた頃です。夜遅く廊下ですれ違ったとき、旦那様が『無理をするな』と言ってくださいました」


 ヴィクトールは少し間を置いた。「……気づいていたのか」


「気づいていたというより——」アリシアは少し考えた。「覚えています。あなたが私に言った言葉は、すべて覚えています」


 言ってから、少し言いすぎたかと思った。だが取り消しもしなかった。


 ヴィクトールはアリシアを見た。ランプの光の中で、その目が少しだけ揺れた気がした。暗い部屋の中では確かめようがなかったが、少なくともアリシアにはそう見えた。


 短い沈黙があった。長くはない。だが静かだった。


 それからヴィクトールは視線を紙へ戻し、また筆を動かし始めた。アリシアも帳簿へ目を落とした。どちらも何も言わなかった。ただ作業が続いた。


 二組目の照合が終わった。三組目の数字と突き合わせる。誤差がないことを確認し、注記欄に小さな丸を書き入れる。指先が少し疲れてきた。それでも手を止めなかった。


 夜半を過ぎた頃、ヴォルフが扉をそっとノックして、茶を二つ運んできた。何も言わず机に置いて、また静かに出ていった。カップから湯気が立ち上った。アリシアはそれを一口飲んだ。温かかった。体の中心から少しだけ熱が戻ってくる感覚があった。


 ヴィクトールもカップを手に取ったのが目の端に見えた。


 夜明けまで、まだ時間がある。やるべきことは全部終わらせる。それだけを考えていた。


 だが作業の合間に、ふと思った。あの廊下での一言を、自分がこれほどはっきり覚えているのはなぜだろう、と。何気なく言われた言葉だったはずだ。それなのに、何度も反芻するほど頭に残っていた。他の人間に同じことを言われても、こんなふうには残らなかっただろうと思った。


 (覚えている、と言ってしまった)


 アリシアは小さく目を伏せた。後悔ではない。ただ少し驚いていた。自分がそういうことを口にする人間だったということに。最初にここへ来た頃の自分なら、絶対に言わなかった言葉だと思った。必要以上のことは言わない。感情を出すのは弱さだ。そう信じて生きてきた。なのに今夜は、その信じ方が少しだけ緩んだ気がした。なぜかはわからなかった。ただ緩んでいた。


 東の空が少しずつ明るくなり始めた頃、最後の数字が揃った。三組の帳簿の照合が、すべて完了した。ヴィクトールの書状も、最後の行へ差し掛かっていた。ランプの油が減り、炎が細くなっていた。


 アリシアの手が、ほんの少し震えた。疲れのせいだった。指の付け根が鈍く痛んだ。それでも、終わりが見えていた。


 あと少し、という感覚が、夜明けの光と一緒にゆっくりと滲んできた。


 ヴィクトールが筆を置く音がした。アリシアは顔を上げた。


「書状が完成した。あとは清書だけだ」


「こちらも最終の照合が終わりました。数字は全て一致しています」


 ヴィクトールは短く頷いた。それから、少し間を置いてから言った。


「よく持った」


 称賛ではなく、確認のような言い方だった。だがアリシアにはそれで十分だった。


 窓の外が、じわじわと白んでいた。夜と朝の境目が、城の石壁を薄い灰色に染め、ランプの光が少しずつ薄れていった。部屋の中のランプがいつの間にか不要になりかけていた。夜明けがそこまで来ていた。


 アリシアは帳簿を閉じ、揃えた書類を一束にまとめた。指先が重かった。肩が強張っていた。だがそれよりも、不思議なほど頭の中が澄んでいた。


 ここに来た頃、自分は何を思っていただろうと、ふと考えた。役割を果たせばそれでいい、と思っていた。この場所に深く関わるつもりはなかった。必要なことをして、必要なだけ働いて、それで十分だと思っていた。


 でも今夜は——ヴィクトールが隣の机で一緒に書状を書いていた。無理をするなと言った。以前も言ったと言った。


 (今は、何を思っているのだろう)


 自分に問いかけてみたが、答えは出なかった。出す前に、眠気が頭の端を霞ませた。アリシアは一度目を閉じ、また開いた。夜明けの光が書斎の窓に差し始めていた。

続きも順次更新されます。よろしければ次話もお付き合いください。

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