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政略結婚先の帳簿を整えていたら、冷酷な辺境伯が手放してくれなくなりました  作者: ヲワ・おわり


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第五十六話 行かせない

「……行かなければなりませんか」


 アリシアは自分でも意外なほど落ち着いた声でそう言った。ライヒェンバッハ侯爵家の紋章が押された召喚状は、机の上でじっと広がったままだった。羊皮紙の端が少しだけ反っている。インクの色は濃く、文字は整然と並んでいた。読み返すまでもない。一度見た瞬間に、意味はすべて頭に入っていた。


 ヴィクトールは一拍置いてから答えた。


「行かなくていい」


 短い言葉だった。断言だった。アリシアは思わず顔を上げた。


「……正式な召喚状でも、ですか」


「対処する。お前が行く必要はない」


「対処するとは——」


 そこでヴィクトールがアリシアを見た。視線が真正面からぶつかった。この数週間、何度も目が合ってきた。帳簿を並べながら、廊下ですれ違いながら、朝の報告の場で。だがこの瞬間の目は、どれとも少し違った。余計なものが何もない目だった。感情でも判断でも説明でもなく、ただそれだけを言うために向けられた目だった。


「行かせない」


 三文字だった。短く、はっきりと、確信を持って言われた。それだけだった。


 アリシアは息が止まった。


 胸の奥で何かが動いた。揺れたというより、固まっていた何かがひびを入れたような、不思議な感覚だった。召喚状を渡された瞬間から、自分でも気づかないうちに身構えていたのだと、この瞬間にはじめてわかった。ひとりで行かなければならないか、と思っていた。あの侯爵家の人間たちの前に、もう一度ひとりで立たなければならないか、と。その覚悟を、静かに積み始めていた。だから「行かせない」と言われたとき、その積み上げが崩れるような感覚があった。


「……理由を、伺ってもよいですか」


 自分の声が、わずかに揺れた気がした。アリシアは気づかれないよう、ゆっくりと呼吸を整えた。


 ヴィクトールは少しの間、黙った。窓の外で風が木の葉を揺らす音がした。ランプの炎が細くなびいた。机の上の召喚状が、ほんの少し動いた気がした。


「……証拠が完成していない」


 実務的な言い方だった。感情が削ぎ落とされた、いつものヴィクトールの話し方だった。正当な理由として提示できる、最も論理的な言葉を選んだような答えだった。


 アリシアはその言葉をしばらく聞いていた気がした。音として受け取って、意味として受け取って、それでもまだ何かが残った。


「……それだけですか」


 聞き返していた。自分でも驚いた。普段なら黙って次の話題に移るところだった。この人に二度聞いたことなど、これまでほとんどなかった。なのに口が動いていた。喉がそれを選んでいた。


 ヴィクトールは答えなかった。


 だが目をそらさなかった。


 沈黙が落ちた。短い沈黙だったが、その中に確かに何かがあった。言葉にされなかった何かが、ゆっくりと部屋の空気に溶けていくようだった。アリシアにはそれがわかった。受け取った、とも言えなかった。言葉ではないから、確かめようがなかった。だが届いた、とは思った。


 ——もしそれ以上のことを言ったとしたら。


 思いかけて、止めた。その先を考えることを、どこかで自分が恐れていると気づいた。怖いのか、考えたくないのか、それとも考えてしまったらもとには戻れない気がするのか、自分でもよくわからなかった。ただ、その先の言葉を今夜想像することは、まだ早い気がした。


「……わかりました」


 アリシアは静かに言った。「証拠を完成させます」


 ヴィクトールが小さく頷いた。「召喚の期限までに、王家へ直接提出する。先に完成した証拠を届けてしまえば、召喚の根拠を崩せる。それが最善だ」


「では、残る作業を整理します。照合がまだ二箇所、提出書の清書が必要です」


「書状は私が書く。お前は数字を仕上げろ」


 また短い言葉だった。だが今度は命令ではなく、分業の確認のように聞こえた。自分がやる、お前がやる、一緒に終わらせる。そういう意味に聞こえた。


「今夜から始めますか」


「今すぐ始める」


 アリシアは召喚状を机の端へ押しやり、代わりに帳簿を手に取った。手が落ち着いていることに気づいた。さっきまで緊張していた手が、今は普通に動いていた。


 ヴィクトールも机の向こうで紙を広げ、羽根ペンを取った。二人分の作業音が部屋に混ざり合った。帳簿のページをめくる音と、ペン先が紙を滑る音。どちらも静かだったが、確かに同じ空間にあった。


 アリシアは数字に目を落としながら、ふとさっきの沈黙を思い返した。


 「行かせない」——あの三文字は、何だったのだろう。実務的な判断として言われた言葉だったのか、それとも違うものが混じっていたのか。受け取り方によって、まるで違う言葉になる。だがどちらの意味に取るべきかを、アリシアは自分に問うことをやめた。今夜は証拠を完成させることだけを考えればいい。それ以外のことを考える必要も、考えていい理由も、今のアリシアには見つからなかった。


 そう決めたはずなのに、ペンを持つヴィクトールの手元をちらりと見てしまった自分に気づいた。


 (……馬鹿なことを)


 アリシアは小さく首を振り、帳簿の数字に視線を戻した。窓の外はもう夜の色をしていた。城の廊下の奥でどこかの扉が閉まる音がした。作業の最後の夜が、静かに始まった。

続きも順次更新されます。よろしければ次話もお付き合いください。

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