第五十四話 間に合わせます
使者の再接触から一日後。ヴィクトールの書斎で、二人は夜遅くまで書類に向かっていた。
暖炉の火が低く燃えていた。蝋燭の光が机の上に二つの影を落とし、外からはときおり風の音がした。アリシアは帝都への正式書状の草稿を仕上げながら、ヴィクトールは証拠書類の最終確認をしていた。部屋の空気は静かで、しかしどこかに緊張が宿っていた。二人とも言葉は少ないが、それはいつもと変わらない。変わっているのは、外から何かが迫ってきているという感覚だ。
書類の束が半分ほどになった頃、ヴィクトールが顔を上げた。
「召喚状が来た場合の話をしておく」
アリシアはペンを置いた。この切り出し方は、今まで何度かあった。報告でも問いでもなく、「話しておく」という形。共有であり、準備でもある。アリシアはペンを机に置いて、ヴィクトールに向き直った。
「合法的な内容であれば、一定期間内に対応が必要になる」とヴィクトールは言った。「財務調査への証言者として王都への出頭を求める内容が、最も考えられる形だ。ライヒェンバッハには帝都の財務庁と繋がりがある。正式な名目でこちらを呼び出すことができる」
「その場合、私は行かなければなりませんか」
「法的には、応じなければ辺境伯家が法を無視したことになる。それを使われると、今度は政治問題になる。ライヒェンバッハにとっては、そちらの方が都合がいい場合もある」
アリシアはその意味を理解した。合法的な形でアリシアを動かす。証拠を作った人間を、証拠から切り離す。証拠書類は残るが、それを作成したアリシアが王都で別の立場に置かれれば、書類の信憑性に疑問を差し込む余地が生まれる。巧妙な手だ。
「ただ」とヴィクトールは続けた。「王家への書状が先に届いていれば、状況は変わる。王家の調査が先行していれば、ライヒェンバッハの召喚状は逆に疑念を持たれる可能性がある。つまり——召喚状が来る前に、王家への書状を出すことが最優先だ」
「証拠の整理は、あと二日で完成します」とアリシアは答えた。
「では……間に合うか」ヴィクトールの声は、問いというより確認だった。算段をしている声だった。
アリシアは少しだけ間を置いた。二日という言葉を口にしてから、頭の中で手順を確かめた。照合表の最終版。商人ルートの接続図。金額の一致証明。いくつかの細かい確認作業が残っている。それを二日で終えるには、今夜も明日の夜も使う必要がある。しかし不可能ではない。手順は見えている。
「間に合わせます」
その言葉が、自分の口から出た。受け身ではなかった。この問題は自分が動かす、という意志から出た言葉だった。帳簿を最初に開いたときから、この数字は自分が責任を持つべきものだと思ってきた。それが今この瞬間、言葉になった。
ヴィクトールはしばらく黙っていた。アリシアを見ていた。何かを言おうとして、一度止まった。言葉が形になりかけて、引っ込めたように見えた。何を言いかけたのかは、分からなかった。
それから「分かった」と短く言って、書類に視線を戻した。
アリシアも机に向かった。蝋燭の光の下で、ペンが紙の上を走る音が再び始まった。暖炉の火が静かに揺れた。城の外は静まり返っていた。
それから二時間、二人は言葉を交わさなかった。それぞれの書類に向かい、それぞれの仕事をした。別々の仕事だが、同じ方向を向いている。そのことを、アリシアは静かに確かめていた。義務として始めた作業が、いつの間にか「やり遂げたい」という感覚に変わっていた。証拠が揃っていく。数字が意味を持つ。このまま終わらせたくない、という気持ちが、灯りの下でじわりと広がっていた。
深夜近くになって、ヴィクトールが「今夜はここまでにしましょう」と言った。アリシアは頷いた。書類を整えて立ち上がると、暖炉の前に少し温かさが残っていた。冬の夜の書斎に、人の仕事の跡が残っている。それが不思議と落ち着く感じがした。
「あと二日で、終わらせます」
書斎を出る前に、アリシアはもう一度言った。ヴィクトールはそれに何も答えなかった。ただ、視線を上げてアリシアを見た。その目の中に何があるかは、読み取れなかった。しかし否定ではないことは分かった。ただそこに確かにある、静かな視線だった。
廊下に出ると、夜の冷気が肌に触れた。自分の部屋に戻りながら、アリシアは「間に合わせます」という言葉をもう一度胸の中で繰り返した。
この言葉は、誰かへの義務から出たのではなかった。自分がこの仕事をやり遂げたいという、それだけから出た言葉だった。そしてそれが——この人のためでもあるかもしれない、という考えが、胸の隅をかすかに通った。考えすぎかもしれない。しかし完全には消えなかった。
翌朝、ヴィクトールから書状が来た。「王都への書状の送付期限を確認した。三日後が最終期日だ」という一行だけだった。つまり、あと二日という計算は正確だった。
アリシアはその書状を机の上に置き、自分の手帳を開いた。今日やるべきことが、既に頭の中に並んでいる。照合表の最終確認。輸送文書の清書。それだけだ。数字は揃っている。証拠は整っている。あとは手を動かすだけだ。
続きも順次更新されます。よろしければ次話もお付き合いください。




