第五十三話 妻という言葉
使者が発つ前日、アリシアは昼過ぎに庭へ出た。
ノルデン城の中庭は、王都の庭園に比べれば質素なものだ。整えられた低い生垣と、石畳の通路と、秋になると実をつける果樹が数本。それだけだが、アリシアはここに来ることがたまにあった。部屋で数字ばかりを見続けた後、外の空気を吸うと頭が少し軽くなる。今日もそのつもりだった。
夜の共同作業を終えて以来、アリシアは自分の中に落ち着かない何かを抱えていた。「あなた」と呼びかけそうになったあの瞬間。飲み込んだ言葉が、まだどこかに引っかかっている。数字の世界に戻れば消えると思っていたが、消えなかった。だから外に出た。冷たい外気が頭を清めてくれることを期待した。
庭の石畳を歩きながら、アリシアは空を見上げた。北の空は今日も曇っている。薄い雲が層を成して、光を均一に拡散させている。影のない、静かな昼だ。果樹の葉が風に揺れて、石畳の上に細かな影を落とした。空気は冷たく、それがかえって心地よかった。
「アリシア・ジークフリート様、少しよろしいでしょうか」
振り返ると、使者が立っていた。
いつの間に近づいてきたのか、足音に気づかなかった。使者はいつもの穏やかな表情で、頭を軽く下げている。礼儀正しく、こちらを追い詰めようとしているとは見えない。それが、かえって油断させない。
「どうぞ」とアリシアは答えた。声を平静に保った。
「この辺境での生活は、いかがですか」使者は並んで歩き始めた。「冬は厳しいと聞きますが」
「慣れてきました。空気が清々しくて、嫌いではありません」
「そうですか。しかし……本当に、こちらに馴染んでいらっしゃる」使者の声が、わずかに違う色を帯びた。「都育ちの方が、こうした辺境に永く留まるのは、なかなか大変なことだと思います。ご夫君はお忙しい方ですし、ご自身の能力を活かす環境としては……」
「十分に活かせています」とアリシアは静かに遮った。
「いえ、そうではなくて」使者は言葉を選ぶような間を置いた。「例えば、王都に戻ることを選ばれても、誰もそれを責めることはしない。有能な方が自らの才能を磨くことは、むしろ自然なことです。ご夫君も理解されるでしょう。そして……才能ある人材には、然るべき居場所があるべきかと」
アリシアは答える前に一瞬だけ間を置いた。これは提案の形をした要求だ。穏やかな言葉で包まれているが、言っていることは単純だ。ノルデンを離れろ。証拠から離れろ。アリシアが自発的に去れば、ライヒェンバッハにとって最も都合がいい。
「お気遣いには感謝します」とアリシアは言った。「ですが私はここにいる方を選んでいます。それは変わりません」
「アリシア」
庭の入り口から、声がした。
ヴィクトールの声だった。
アリシアが振り返ると、彼が庭の石畳の端に立っていた。腕は組んでいない。ただ立っている。それだけだが、その静けさに何か強いものが混じっていた。アリシアはこれまで彼のさまざまな声の調子を聞いてきたが、今のこれは、初めて聞く質のものだった。温度が低く、しかし抑えられた力がある。
「何をお話しでしたか」
使者が向き直り、微笑んで答えた。「いえ、奥様のご活躍を伺っておりまして」
「そうですか」ヴィクトールはアリシアの隣に来て並んで立った。「妻は何かお話しするつもりでしたか」
「いいえ」とアリシアは答えた。
「ならば、妻への用件は終わりです。未要請の助言は、我が家では歓迎していません」
使者は一瞬だけ沈黙した。それから、深く頭を下げた。「失礼いたしました」と言って、静かに去っていった。
二人が庭に残された。風が低い生垣を揺らした。
「妻」とアリシアは口の中で繰り返した。声には出さなかった。彼は「夫人」とも「アリシア様」とも言わなかった。「妻」と言った。
「邪魔をしてすまなかった」ヴィクトールが言った。
「謝らないでください」とアリシアは答えた。声が少し低くなった気がした。「ありがとうございました」
ヴィクトールは何も言わなかった。しばらく二人は並んで庭に立っていた。風が吹き、果樹の葉が揺れた。石畳の上に小さな影が動いた。
やがてヴィクトールは「仕事に戻ります」とだけ言って、庭を出た。アリシアはその背を見送りながら、まだ胸の奥の速さが収まらないのを感じていた。
その日の午後、アリシアは自室の机で書類に向かいながら、繰り返しあの言葉に立ち返っていた。
使者に向けて言われた言葉だ。外敵への牽制として言われた。感情的な言葉である必要はない。実務上の言明として十分に成立する。そう自分に言い聞かせることはできる。
しかし——それだけだろうか。
ヴィクトールは使者がアリシアに近づいたことを、事前に知っていた可能性がある。この城で偶然に見える出来事が、実際には意図を持って起きていることを、アリシアはいくつか経験していた。知っていて、庭に来た。知っていて、あの言葉を選んだ。
数字の読み方と人の言葉の読み方は、似ているようで違う。数字は一義的だが、言葉は複数の意味を持てる。決定的な証拠なしに断定してはいけない。それは帳簿でも、言葉でも同じことだ。
それでも、「妻」という言葉が、胸のどこかに留まり続けた。夜になって寝台に入っても、まだそこにあった。
翌朝、城に一通の書状が届いた。ヴィクトールの顔色が変わった。
続きも順次更新されます。よろしければ次話もお付き合いください。




