第五十二話 夜の共同作業
灯りが二本になったのは、夜の九時を過ぎた頃だった。
ヴィクトールの執務室の机には、二人分の書類が広がっていた。アリシアは右側に腰を落ち着け、照合表と元帳の写しを並べて、数字の流れを確認しながら余白に細かな注記を書き込んでいる。ヴィクトールは左側で王家への提出文書の本文を書いており、羽根ペンが紙の上を走る音が静かに続いていた。ほとんど言葉はない。聞こえるのは紙の音と、ペン先が紙を滑る音と、外の風だけだ。夜の城は静かで、廊下を歩く衛兵の靴音が遠くに聞こえる以外、世界が止まったような静けさがあった。
不思議なことに、それが窮屈に感じられなかった。
アリシアは経理の仕事をするとき、一人でいることが多かった。計算は集中を要する。誰かの存在は気が散ると思っていた。だが今夜は違った。誰かが隣にいる。同じ目的のために同じ夜を使っている。その事実が、むしろ自分の集中を助けているような気がした。互いの作業を邪魔しない距離感がある。そして必要なときだけ言葉を交わす。それがちょうどよかった。
「ここを確認してくれ」ヴィクトールが書類を差し出した。「三段目の数列。繋がりは合っているか」
アリシアは手を止めて受け取り、目を走らせた。四年分の資金移動が三列に並んでいる。数字を左から右へ、縦に縦に追っていく。ゲルハルトの裏台帳に記録されていた金額と、表向きの勘定帳の差異。それが今この文書の中で、根拠として整然と並んでいる。
「合っています。ただ、ここに欄外の注釈が一つあると、王家の読み手が前後の関係を掴みやすくなると思います。こういう形で」アリシアは自分の手帳を開き、あらかじめ考えておいた文言を示した。
「……そうだな。書いてくれ」
アリシアは余白に書き込んだ。ヴィクトールが手元の書類に目を落とし、何かを確認してから頷いた。それだけだ。余計な言葉はない。でも充分だった。互いの仕事の領域を侵さず、必要な場所でだけ補い合う。こういう共同作業のやり方が存在するとは、アリシアはあまり考えたことがなかった。
夜半を過ぎた頃、燭台の蝋が半分ほど溶けていた。アリシアの指先はインクで少し汚れていた。数字を追い続けた目が、わずかにかすんでいる。それでも手は止まらなかった。まだ終わっていない。召喚状が来るまでに、これを仕上げなければならない。
ヴィクトールが言った。
「少し休め」
「まだ大丈夫です。あとこの一冊が終われば、今夜の分は完成します」
「無理をするな」
アリシアはペンを止めた。燭台の炎が、微かな風で揺れた。
その言葉を、前に聞いた。深夜の廊下で、燭台を持って立っていた彼が、そう言った。あの夜から日が浅いのに、ずいぶん遠い記憶のような気もする。それほど多くのことがあった。ゲルハルトの帳簿、使者の来訪、書庫でのあの瞬間。全部がここ数週間の出来事だ。
「……以前も、同じことを言われましたね」とアリシアは静かに言った。
「そうだったか」
それだけだった。否定もしない。説明もしない。覚えていることを否定せず、ただ問いかけに応えた。言葉の少ない人だ、とアリシアは改めて思った。でも少ない言葉が全部、必要なものだけでできている。
アリシアはしばらくペンを持ったまま、動かなかった。何かが胸の奥で静かに積み上がっている。名前のつけにくいものが。昼間は仕事の論理で押さえ込めても、夜の静かな時間に灯りを共にしていると、それが少しずつ表面に近づいてくる。外から見れば仕事上の関係だ。証拠を整理するために来た妻と、その主人。それ以上でも以下でもない。なのに、なぜこんなにも、彼が発する言葉の一つひとつを覚えているのだろう。
夜が深くなって、部屋の空気が冷えてきた頃、その夜の作業が一段落した。ヴィクトールが書き上げた草稿をアリシアが確認し、数字の整合性に問題がないことを確かめた。アリシアが整理した照合表を、ヴィクトールが提出文書の附属資料として編集した。お互いの成果物が組み合わさって、一つの形になっていった。
「ありがとう」
ヴィクトールが言った。短く、直接的に。珍しい言い方だとアリシアは思った。彼はいつも「確認した」「問題ない」「次に進もう」といった事務的な言葉を使う。感謝をそのまま口にすることは、ほとんどなかった。だから、その二文字が思いのほか耳に残った。その言葉の重みをどう受け取ればいいか、アリシアはすぐには分からなかった。ただ、胸のどこかが静かに動いた。
「いえ、こちらこそ」とアリシアは答えた。それから、少し迷って。「——あなたが、」
口から出かけた言葉を、アリシアは途中で飲み込んだ。「あなた」という呼びかけが、空気に触れそうになって、急に居場所を失った。名前でも敬称でもなく、親密さを前提にした言い方。それを自然に使いかけた自分に気づいて、アリシアは静かに唇を閉じた。頬に熱が集まる気がした。幸い、部屋は薄暗い。
「……いえ、何でもないです」
ヴィクトールは何も聞かなかった。視線を手元の書類に戻した。
三日後、召喚状が届くとしたら——証拠はその前に届かなければならない。アリシアはそう心に決めて、ペンを握り直した。夜明けまで、まだ時間がある。灯りが二本ある間は、仕事を続けられる。それだけを考えることにした。
続きも順次更新されます。よろしければ次話もお付き合いください。




