第五十一話 包囲の始まり
使者が城を発った翌朝、ヴィクトールは執務室にアリシアとヴォルフを呼んだ。
窓から差し込む光は薄く、雲が厚い。北の空が低く垂れ込めていて、部屋の中は昼前だというのに薄暗かった。まるで天気まで空気を読んでいるようだ、とアリシアは思った。ヴィクトールが机の前に立ち、ヴォルフが扉近くに控えている。アリシアは机を挟んで向かいの椅子に腰を下ろし、手帳を膝の上に置いた。この二日間で整理した数字が頭の中にある。使者が何を見て、何を確認しようとしていたか——その痕跡も、アリシアは逐一記憶していた。
「次は正式な召喚状が来る」ヴィクトールは開口一番、そう言った。前置きがない。「形式は、おそらく——王都財務調査における証人招致の要請だ」
「私が、ですか」
「君が。証拠を整理し、帳簿に精通している人間として名指しされる。名目上は任意の協力だが、正式な国の文書となれば法的な重みを持つ。無視すれば、ノルデン側が不法を犯したという構図ができる」
ヴォルフが補足した。「正式な召喚に従わないとなれば、こちらが隠蔽していると見られます。ライヒェンバッハ側は法の形式を使う。力で押してくるより、よほど厄介です。反論する相手が国の手続きそのものになる」
「つまり」とアリシアは静かに言った。「形式上は調査への協力要請だが、実質的には——私を、証拠から、ノルデンから切り離すための手段ということですね」
「そういうことだ」ヴィクトールは短く答えた。「君がノルデンを離れれば、証拠の管理主体が消える。書類の解釈を巡る争いになったとき、当事者がいないことは致命的に不利になる。証拠は物として残っても、それを読める人間がこの城にいなければ意味が変わる」
アリシアは胸の中で論理を整理した。召喚状が来る前に動かなければならない。証拠を王家に提出するのが先手だ。王家への提出が完了していれば、召喚状の法的根拠は大幅に弱まる。すでに上位の権威に委ねられた調査を、下部組織が横から引き取ることはできない。戦場を変える、ということだ。ライヒェンバッハが法の形式を武器にするなら、こちらはより上位の権威を先に動かす。数字の世界でも似たことがある。対立する証拠が複数あるとき、より根拠の強い方が採用される。今は根拠の戦いだ。
「時間はどれくらいありますか」
「使者が都に戻って、報告書をまとめ、文書を起草して……一週間から十日、というところだろう。速ければ七日、場合によっては六日ということもある」
「分かりました」アリシアは頷いた。「急ぎます。あと二日あれば、証拠の照合と整理は完成できます」
「私も作業に加わる」ヴィクトールは言った。「王家への提出文書の本体は私が書く。事実の整理と数値の裏付けは君が担当してくれ。ヴォルフ、文書輸送の準備を始めてくれ。複数の経路を確保する。一本だけでは危い」
「はい、すぐに手配します」
ヴォルフが退室した。扉が静かに閉まって、部屋に二人が残った。ヴィクトールは窓の外に目を向けた。雲の向こうに何かを見るような目をしている。その横顔を見ながら、アリシアは静かに思った。
彼はすでに、この展開を読んでいたのだ。
使者が来る前から。あるいはライヒェンバッハの手紙が届いた時点から。この状況がどう動くかを見通して、逆算して準備を進めていた。三手先の局面を読んで、今の動きを組み立てている。アリシアは経理の仕事で数字の流れを追う。ヴィクトールは政治の力学で権力の動きを読む。それぞれが異なる言語で同じ地図を見ている感じがした。
感嘆と、それとともに小さな安堵が混じって胸に広がった。自分一人ではない。数字の裏を読む仕事は自分がする。だが全体の戦略を組み立てる人間が、隣にいる。それがどれほど心強いことか。ノルデンに来るまで、アリシアは何年も一人でやってきた。誰かと並んで戦うということが、こんなにも違うものだとは思っていなかった。
「ヴィクトール様は、最初からこうなると分かっていたんですか」
彼は振り返った。少し間を置いて、「大体は」と答えた。
「……それでも怖くはないんですか。相手は侯爵家です」
「怖い、という感情で仕事はしない」
素っ気ない言い方だったが、アリシアはそれが強がりでないことを知っていた。ただ、そういう人間なのだ。感情で動くのではなく、事実で動く。恐れを持たないのではなく、恐れを動力に変えない。それはアリシアがずっと目指していたことに、どこか似ていた。
「私も、そうありたいと思っています」アリシアは静かに言った。「数字を前にしたとき、感情は邪魔なので」
ヴィクトールは何も言わなかった。だが口元が、かすかに動いた気がした。否定でも肯定でもなく、ただそれだけ。アリシアはそれで充分だと思った。
机の上には、これまで整理してきた帳簿の写しと照合表が積まれていた。数字の山だ。自分が何週間もかけて掘り起こし、並べ、照らし合わせてきたもの。それが今、大きな意味を持って、この争いの中心に置かれている。怖くはないかと自分自身に問えば、嘘をつかなければ少しは怖いと認めなければならない。だが、やるべきことをやるだけだ。そうすると決めてここに来たのだから。
その夜、執務室に二人の灯りがともった。最後の仕上げが始まる。
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