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政略結婚先の帳簿を整えていたら、冷酷な辺境伯が手放してくれなくなりました  作者: ヲワ・おわり


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第五十話 使者の到着

ライヒェンバッハからの使者は、アリシアが想像していたよりずっと穏やかな顔をした男だった。


 年は四十代半ばだろうか。地味な紺色の外套に、首都の役人らしい几帳面な身なりをしている。表情は整っていて、怒気も焦りも見せない。廊下で一瞬目が合ったとき、彼は軽く頭を下げてみせた。礼儀正しい目だ、とアリシアは思った。礼儀正しく、そして何も映さない。もちろんそれは訓練の結果だ。この種の人間は、顔に何も出さないように長年かけて自分を作り上げている。


 ヴィクトールが正式な場として大広間を使い、使者を迎えたのは昼過ぎのことだった。アリシアは直接の場には出ず、廊下から続く控えの間で待機していたが、扉越しに声の調子だけは聞こえてきた。控えの間は薄暗く、燭台の明かりが一本だけ揺れていた。アリシアは椅子に腰を下ろして手を膝の上で組み、静かに息を整えた。ヴィクトールの声は淡々としていた。使者の声も穏やかだった。お互いが礼の言葉を交わしているのは分かったが、その下に流れる緊張感は、壁を隔てていても感じられた。水面下で、二人はそれぞれ相手の出方を測っているのだろう。表向きの言葉は何も示さない。ただ、示さないこと自体が示すものがある。それを読み取るのは、数字の裏を読むのと少し似ていた。


 公式の理由は「辺境領の財務管理に関する実地視察」だった。懸念があるわけではなく、中央として定期的に確認しているに過ぎない、という体裁だ。だがその言葉を誰も信じていないことを、この場にいる全員が分かっていた。あたりまえのように挨拶をして、あたりまえのように茶を飲んで、お互いが腹の底を隠している。その種の空気を、アリシアは久しぶりに感じた。王都にいた頃、似たような空気の部屋に何度か座ったことがある。


 午後、使者は城内を案内された。ヴォルフが同行し、細やかに立ち回っていたが、使者の目は各所で何かを確認するように動いていた。厨房の帳簿の保管場所、衛兵詰め所の配置、書庫への通路。書庫の入り口では足を止め、誰が管理しているかを問い、アリシアが帳簿の整理に関わっていることをさりげなく確かめるように聞いた。ヴォルフが「領主夫人は日常的な整理を手伝っておられます」と答えるのを、少し離れたところで聞きながら、アリシアは表情を変えなかった。手伝い、という言葉の選び方が丁度いい。事実であり、かつ重要性を感じさせない。


 夕方近く、廊下で使者がアリシアのそばに近づいてきた。足音は静かで、声をかけられるまで気づかなかった。


「アリシア・ジークフリート様でいらっしゃいますか。お噂はかねがね伺っておりました」


「お初にお目にかかります」とアリシアは答えた。声に愛想を乗せるのは難しくなかった。こういうときの顔の作り方は、長年の経験がある。


「辺境の地でご尽力されているとのこと、誠にご立派です。帳簿の整理も、ご自身でされていると伺いましたが」使者の声は柔らかく、敵意の欠片もない。「まあ、お趣味として、という程度でしょうが」


 アリシアは内心で少し笑った。「趣味として」と言うことで、自分が小さく見せようとしている。それに乗ればいい。


「ええ、趣味のようなものです。もともと数字が好きなので、暇を持て余すよりはと思いまして」


「なるほど」使者はかすかに微笑んだ。「辺境の生活には、さぞご不便もおありでしょう。都市のような環境があれば、ご才能はより……広く活かせるのではないかと。才能ある方が辺境に留まるのは、国としても少々もったいない気がしてしまいます」


「いいえ、ここは過ごしやすいですよ」とアリシアは答えた。笑顔は崩さない。「自分にとても合っています」


「そうですか」使者はしばし沈黙した。何かを考えているのか、あるいは沈黙そのものが返答を待っているのか。「実は、都の会計監査局では現在、有能な人材を求めておりまして。奥様のような方のお力があれば、領主様もきっとご理解されることと思いますが。お考えになることは……」


「ありがとうございます」アリシアはにっこりと言った。「ですがわたくし、今いるところがとても気に入っておりますので。お気遣い、嬉しく思います」


 使者は一瞬、目に何かを浮かべた。驚きか、あるいは計算の修正か。すぐに消えた。彼は小さく頭を下げ、「ご夫婦仲睦まじく」と言って立ち去った。


 廊下の反対側、少し離れた柱の陰に、ヴィクトールが立っているのが見えた。いつからそこにいたのか、アリシアには分からなかった。彼は何も言わなかった。腕を組み、廊下に溶け込むようにして立っている。視線が一瞬だけ使者の背中を追い、それからアリシアの方に戻ってきた。アリシアは少し首を振ってみせた。何も与えていない、という意味で。ヴィクトールの目が静かに頷くように細くなった。言葉は不要だった。今の短いやりとりで、お互いが確認したいことは確認できた。


 夕食後、執務室でヴィクトールが短く言った。


「次は正式な文書が来る」


 それだけだった。でもその言葉に込められた意味を、アリシアは充分に理解した。今日の使者は地ならしだ。次は法的な力を持った何かが来る。


 使者は城に、あと二日間滞在する予定だった。その間に何を見、何を持ち帰るつもりなのか。アリシアには分からなかったが、ただ一つ確かなことがある。次に来るのは、言葉ではなく文書だ。

続きも順次更新されます。よろしければ次話もお付き合いください。

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