第四十九話 守られたという感覚
朝の光が石造りの廊下を斜めに切り取る頃、アリシアはまだあの感覚を引きずっていた。
右の手首。昨夜、ヴィクトールに掴まれた場所。痛みではない。強く握られたわけでもなかった。ただ、熱のような残像がそこにある。目を閉じれば、暗い書庫の入り口で彼が振り返った瞬間を思い出した。松明の光が横顔を照らし、影の中に立つ彼の目が、珍しいほどはっきりとこちらを見ていた。普段は何を考えているのか分からない、感情の薄い目をしている人だと思っていた。だがあの瞬間、その目の奥に何かが見えた気がした。なんと呼べばいいのか、アリシアには分からなかった。
「一人で来るな」
命令でも、叱責でもなかった。声の底に、何か別のものが混じっていた。アリシアにはまだ、それに正確な名前をつける言葉がなかった。いや、もしかしたら言葉は知っていても、それを適用することを自分が拒んでいるのかもしれなかった。
窓の外では北の空が薄く白んでいた。ノルデン城の朝は早い。石畳を踏む衛兵の靴音が規則正しく廊下まで聞こえてくる。アリシアはぬるくなった茶を一口飲み、手首に残る熱の記憶を手のひらで無意識に押さえた。気づいて、すぐに手を離した。いつからこんなに意識しているのだろうと思った。自分でも呆れるほど、あの一瞬の接触が頭から離れない。証拠の整理という仕事が控えているというのに、数字ではなく人の体温の記憶に引きずられている。これは困った傾向だ、とアリシアは思った。
朝食を終えて廊下に出ると、ヴォルフが角のところに立っていた。いつも通り、穏やかな目をしている。巡回の途中だったのか、剣の柄に軽く手を添えたまま、アリシアに気づいて向き直った。
「アリシア様、おはようございます。本日、ライヒェンバッハからの使者が到着します。午前中は執務室の近くにいてください。廊下をひとりで歩き回るのは、今日は特に控えていただけると助かります」
「分かりました」とアリシアは答えた。それから、少し迷ってから付け加えた。「ヴォルフさん、いつも細かく気を配ってくださって……ありがとうございます」
「いえ」ヴォルフは首を振った。それから少し間を置いて、「私だけではありませんよ」と言った。「領主もそうです」
さらりと言われた言葉に、アリシアは歩みを止めた。
「領主が?」
「アリシア様の動きを把握しておくよう、私に指示がありました。いつからということでもなく……気がついたら、そういう体制になっていました。何かあったとき、すぐに動けるように」
アリシアは自分でも気づかないまま、言葉を口にしていた。
「……昨夜、書庫で領主に止められたんです。一人でいるところを」
ヴォルフは少し間を置いた。目を細めて、それから小さく笑った。喉の奥で押さえるような、静かな笑い方だった。
「……いかにも、あの方らしい」
「らしい、とは?」
「言葉より先に動く方なんです、昔から。説明や前置きより先に、体が反応してしまう。後から理屈をつけることはされますが、順序が逆なんです」ヴォルフは遠くを見るような顔をした。「長くお仕えしていると、分かってきます」
言葉より先に動く。
アリシアはその言葉を胸の中で繰り返した。深夜の廊下でわざわざ声をかけてきたこと。理由も告げないまま執務室に呼びつけたこと。そして昨夜の書庫。あの手首を掴む動作も、全部、言葉より先に体が動いていた。では、あの行動の裏には——言葉になる前の何かがあったということだろうか。
「どういう意味で、らしいんですか」とアリシアは聞いた。
「大切なものを守るとき、あの方はまず行動します。理由を説明するより先に、間に入る。そういう方です」ヴォルフは軽く肩をすくめた。「少し不器用ではありますが」
アリシアは何も言えなかった。
ここへ来たとき、アリシアは誰にも何も期待しないと決めていた。期待しなければ、傷つかない。それが幼い頃から学んだ処世術だった。感情に頼らず、論理と数字に従う。経理の仕事に徹して、証拠を整理して、役目を果たせばいい。ノルデンに来たのも、そのためだ。そのはずだった。
でも、こうして今、あの熱の残像を反芻している自分がいる。「大切なものを守るとき」——ヴォルフがさらりと使ったその言葉が、胸の奥に引っかかって離れない。
もしかしたら気づかないうちに、自分は誰かに守られることを——望んでいたのかもしれない。
その思考に気づいた瞬間、アリシアは静かに目を伏せた。認めるには、まだ少し時間が必要だった。あるいは、すでにもう認めていて、ただその言葉を口にする勇気がないだけかもしれない。守られたいなどと、そんなことを思う自分はどこから来たのだろう。ずっと一人でやってきた。そうしなければならなかったし、そうするのが当然だと思っていた。なのに今、ノルデンのこの城で、気づけばその前提が少しずつほつれていた。
「ヴォルフさん」と彼女は言った。「使者には、私のことはどのように説明されるんでしょうか」
「経理の補佐として婚姻した、領主夫人として通します。それ以上の詮索はさせません。アリシア様は余計なことをお話しにならなくて構いません。にこやかに、でも何も与えないように」
「……ええ、そうします」
廊下の先で、正門の方向から馬蹄の音が響き始めた。複数の馬。石畳の上でそれが反響して、城全体に小さく伝わってくるようだった。
昼前、使者が到着する。
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