第四十八話 手首を掴む手
調査官が到着する前日の夕方、アリシアは一人で書庫へ向かった。
最後に確認しておきたい記録があった。収支帳の原本と写しとで数字が一か所だけ食い違っている箇所があり、それが誤記なのか意図的な改竄なのかをはっきりさせたかった。大勢に影響はないかもしれない。それでも証拠書類に不整合が残っていると、提出した際に相手方の代理人に突かれる可能性がある。些細な傷でも残したくなかった。
城の書庫は北翼の端にある。廊下を歩くと、夕方の光が石壁に橙色の縞を作っていた。人の気配は少ない。侍女たちは西側の居室区画にいる時間だ。静かな廊下を一人で歩きながら、アリシアは手順を頭の中で整理した。確認すべき箇所、照合すべき欄、書き留める内容——短く済ませるつもりだった。
書庫に入ると、目当ての棚はすぐわかった。整理の仕方がアリシア自身の手によるものだから、どこに何があるか体が知っている。蝋燭を一本持ち込み、棚の前にしゃがんだ。原本を取り出し、写しと並べて読み始めた。
石床はひんやりしていた。静かな部屋の中で、蝋燭の炎だけが柔らかく揺れた。数字を追う作業は無心になれる。こういうとき、アリシアは頭がよく働いた。計算の流れに乗ると、余分なことを考えなくて済む。調査官のこと、ライヒェンバッハのこと、これから起きるかもしれないことを一時忘れられる。数字だけが目の前にある。
不整合の箇所を見つけた。やはり誤記だった。意図的ではない。写しを作った際の転記ミスで、金額の一桁が落ちていた。原本には正しい数字がある。この差異は注記として添付しておけばいい。小さな安堵があった。
書き留めながら、次の照合箇所へ移ろうとしたとき——
背後で扉が開く音がした。
振り返ったとき、そこにヴィクトールが立っていた。
彼の表情が、ほんの一瞬だけ動いた。何かを確認するような、あるいは何かを見つけて止まるような、短い間。それからアリシアのそばに歩み寄ってきた。
何も言わずに、手首を掴んだ。
アリシアは反射的に小さく声が出た。痛くはなかった。乱暴でもなかった。ただ突然のことで、体が止まった。蝋燭の炎が揺れた。
掴んだまま、ヴィクトールが言った。声は低かった。普段よりもさらに、低かった。
「一人で来るな」
「書類を確認したかっただけです。すぐ終わります」
「調査官が来る前日だ。お前が一人でいるのは、よくない」
アリシアは少し考えてから「……わかりました」と答えた。反論できなかった。理屈として正しい。この城の中に、まだ誰が情報を漏らしているか確認できていない部分がある。実際にどこまでの危険があるかはわからないが、慎重すぎることを咎める理由もなかった。
「書類は明日にしろ」
「……はい」
ヴィクトールの手が離れた。
アリシアは何気なく、もう一方の手で今掴まれていた手首をそっと覆った。反射的な動作だった。意識してそうしたわけではない。ただ、その感触がまだそこに残っているようで、なんとなく押さえたかった。
ヴィクトールはそれに気づいたかもしれない。気づかなかったかもしれない。彼は「行くぞ」とだけ言い、書庫の出口へ向かった。アリシアはその背中に続きながら、手首の温度のことを考えた。
強くはなかった。荒々しくもなかった。ただ、確かに掴まれたという事実があった。言葉より先に手が動いた。心配しているから来た、ということが、その一動作にそのまま込められていた。飾らない、説明もない、直接的なやり方だった。
守られた、という感覚が、じわりと遅れてやってきた。
廊下を歩きながら、アリシアは自分の中にその感覚を持て余した。こんな気持ちを持つつもりはなかった。ここに来たとき、アリシアは何も期待しないことに決めていた。夫婦という名目だけの関係で、お互い別の計算で動いている——そのはずだった。
なのに、この感覚は何なのだろう。
ヴィクトールは廊下を先に歩いた。振り返りはしなかった。でも彼がここまで来たのは、アリシアが一人でいるのを知ったからだ。それだけは確かだった。
部屋に戻ってから、アリシアはその感触について考えた。手首を掴まれた瞬間のことを。驚いた。驚いたが、恐怖はなかった。それどころか、少し——。
考えるのをやめた。
考えるべきことが他にある。明日、調査員が来る。ヴィクトールが動く。自分は書斎に待機する。証拠は完成している。
それだけを考えよう、と思った。しかし眠れなかった。
夜中に何度か目が覚めた。目が覚めるたびに、廊下に足音がないかを確かめた。城は静かだった。遠くで風の音がするだけだった。
夜明け前に、アリシアはようやく眠れた。手首の、あの場所の温度が、ゆっくりと冷めていく中で。
翌朝、城門を開く音が聞こえた。調査員が到着したのだ。
鐘が一度鳴った。午前の刻だ。アリシアは寝台から起き上がり、窓の外を見た。城門の方向から声が聞こえる。馬の蹄の音がある。
来た。
身支度を整えながら、アリシアは今日一日をどう過ごすかを考えた。調査員と直接話す必要はない。ヴィクトールが対応する。自分は書斎で記録の確認を続ける。何も変わらない。いつもと同じように動く。それだけだ。
しかし手首の感触は、まだそこにあった。
続きも順次更新されます。よろしければ次話もお付き合いください。




