表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
政略結婚先の帳簿を整えていたら、冷酷な辺境伯が手放してくれなくなりました  作者: ヲワ・おわり


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
5/70

第五話 朝食の食卓

本作は全70話完結予定です。

毎日5話ずつ、07:10 / 12:10 / 18:10 / 20:10 / 22:10 に更新予定です。

面白かったら評価やブックマークで応援していただけると嬉しいです。

週に二度、共同で朝食を取る。


 城の慣例だとゲルハルトが説明した。「辺境伯様はたいへんお忙しい方でございますので、定期的に奥方様とお話しする機会として設けております」。丁寧な言い回しだったが、要するに「それ以外では会う機会がほとんどない」ということだ。アリシアはそれで構わないと思った。強制された関係よりも、ルールとして決まっている関係のほうが、双方にとって楽なこともある。


 七日目の朝、初めての共同朝食。


 食堂はそれほど広くない。長机の上座にヴィクトールが座り、向かいにアリシアが座った。マルタと侍女が料理を運んでくる。パンと肉の薄切り、塩漬けの根菜、羊乳のスープ。質素だが量はある。辺境の食卓らしい、実質的な食べ物だ。南の実家では香辛料の効いた料理が多かったので、最初は少し戸惑ったが、今はもう慣れてきた。体を温める目的の料理だと分かると、食べやすくなった。


 アリシアがナプキンを膝に置いたとき、ヴィクトールが言った。


「体調は問題ないか」


 視線は手元の書類に向けたまま、顔はこちらを向いていない。声のトーンは事務的だ。しかし聞いてくれたことは事実だ。


「はい、問題ありません。寒さには少し慣れてきました。こちらはまだ四月でも雪が残っているのですね」


「山の雪は五月まで残る年もある。服は十分か」


「持参したものがあります。問題ありません」


「そうか」


 それで終わった。短い返答が二つで終わる会話。しかしアリシアには居心地が悪いとは感じなかった。必要なことを確認して、確認が終われば黙る。それは実務的な人間の話し方だ。無関心と実務的は違う。


 スプーンでスープをすくいながら、アリシアは言葉を選んだ。話しかけることにしたのは、ためらいもなかった。


「書庫の整理をしています。古い帳簿が多く残っていましたので」


 ヴィクトールが顔を上げた。それまで書類に固定されていた視線が、初めてこちらに向いた。灰色の目が、アリシアを見た。何かを確認するような視線だった。値踏みではなく、確認だ。この人は確認する前に結論を出さない、とアリシアは思った。


「……そうか」


 判断しにくい返答だった。それ以上は何も言わず、また書類に視線を戻した。


 許可を与えてくれたのか、それとも話を終わらせたかっただけなのか。アリシアには分からなかった。ただ「やめろ」とは言わなかった。それで十分だ、と思うことにした。


 しばらく無言が続いた。スプーンの音と、紙のめくれる音だけがある。その沈黙は不思議と不快ではなかった。同じ空間にいることを、お互いが認識している。それだけで十分な関係というものが、世の中にはある。


 マルタが後ろから近づいてきて、テーブルのカップに温かい飲み物を注いだ。手際がよく、静かな動作だった。注ぎながら、マルタが言った。


 何気ない口調だった。


「前の奥方様は書庫にはお近づきになりませんでした」


 食堂が静かになった。


 マルタが自分の言葉に気づいたのか、注ぐ手が一瞬止まった。しかしもう言葉は出てしまっていた。取り消せない言葉というものがある。それはたいていの場合、本当のことだ。


 アリシアは向かいを見た。


 ヴィクトールの表情が、ほんのわずかに動いた。変わったとも言えないほどのごく小さな変化だったが、アリシアの目にはそれが見えた。視線が書類から外れて、どこでもない場所を向いた。それは一秒にも満たない時間のことだった。しかしその一秒に、何かが入っていた。


「それでいい」


 短くそれだけ言って、ヴィクトールは席を立った。書類を手に持ったまま、足音を立てずに食堂を出ていった。


 残された食堂で、アリシアはカップを両手で包んだ。温かさが指に伝わる。


「それでいい」という言葉の意味を考えた。書庫の整理を認めてくれたのか。それとも話を終わらせたかっただけか。あるいは「それ」がどこを指しているのかすら、分からないのか。


 分からないことが残った。


 ただ、一つだけ分かったことがある。


 この人は何かを感じている、ということだ。前妻の話が出たとき、ヴィクトールの目が動いた。ほとんどの人間には気づかれないほどの変化だったかもしれない。しかし確かに動いた。それは彼が感情を持っている人間であることの、小さな証拠だった。感情があって、しかし外に出さないようにしている。あるいは出せなくなっている。


 マルタが「失礼いたしました」と静かに言ってカップを置いた。アリシアは「気にしていません」と答えた。本当にそう思っていた。


 食事を終えて席を立つとき、アリシアは窓の外を見た。曇りの空だった。北の空は重く、灰色がかっている。山の稜線に雪が白く残っている。


 書庫に戻ろう、と思った。数字を追っているとき、アリシアは自分がどこにいるかを忘れることができる。この城で自分の場所はまだどこにもない。書庫だけが、今のところ自分が何かをできる場所だった。


 廊下に出ると、朝の光が石の床に差し込んでいた。まだ昨日の確認の続きがある。ヴェルナー商会への支払いが三か月分記録されているのに、証憑が一通しかない件。さらに遡って確認する必要がある。何年前まで同じパターンが続いているかを把握してから、次のことを考える。


 数字は嘘をつかない。ただ、読み取り方を間違えると、嘘と同じ結果になる。焦らず、丁寧に。それがアリシアの仕事のやり方だった。

続きも順次更新されます。よろしければ次話もお付き合いください。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ