第45話 察知
ヴォルフの報告は簡潔だった。しかし、その中身は重かった。
「王都から調査官が派遣されます。名目は『地域視察』ですが、出所を辿ると侯爵家と繋がりのある筋から要請が出ています。到着は早ければ五日後。遅くとも一週間以内かと」
書斎の空気が変わった。暖炉の火は変わらず燃えているが、その光が少し寒々しく見えた。アリシアは背筋を伸ばして、ヴォルフの次の言葉を待った。
「ライヒェンバッハがこちらの調査に気づいた、ということか」
ヴィクトールの声に動揺はなかった。ただ、状況を確認している。
「おそらく。そして——もう一つあります」ヴォルフが続けた。「城内の情報漏洩を確認しました」
「……詳しく」
「城に仕える使用人の一人が、特定の王都商会と連絡を取っていたことが分かりました。ゲアハルトの逮捕から二日後に、城の外から文書が送られた形跡があります。私の部下が別ルートで確認しました。当該の使用人については、既に行動を制限しています」
書斎が静かになった。暖炉の炎だけが揺れていた。
アリシアは頭の中で事実を整理した。情報は既に漏れていた。ゲアハルトの逮捕という情報が、城内の誰かを通じてライヒェンバッハ側に伝わっている。だから調査官が来る。表向きの名目を持たせて、こちらの動きを把握しにくる。あるいは、証拠が整う前に何らかの圧力をかけるために。
あるいは、もっと直接的な方法を使う可能性もある。証拠そのものを押収するか、調査の正当性を問題にするか。「地域視察」という名目を持った調査官が城に来て、書類の閲覧を要求したら——断れるとは限らない。
「どちらの目的でも、時間は削られます」とアリシアは言った。
ヴィクトールがこちらを向いた。「証拠の整備はどこまでできている」
「八割ほどです。確認できていないことが一つだけ残っています——最終的な資金の行き先です。加工施設への投資記録まではたどれましたが、その施設がライヒェンバッハ家と直接結びついていることを示す文書が、まだ手元にない。他のルートからの間接的な証拠はあります。でも、直接の証拠としては弱い」
「残りの二割がそこだ」
「ええ。他の部分は揃っています。ただ、その一点が確定しないと、ライヒェンバッハへの直接の責任追及が難しくなる。証拠の鎖に隙間があれば、否定されたときに崩れる可能性がある」
ヴィクトールは少し考えてから、静かに言った。「優先してくれ。調査官が来る前に、その一点を確定させる。それだけを今は考えろ」
「分かりました」とアリシアは答えた。「見当はついています。ゲアハルトの個人帳簿を確認したい。逮捕時に押収された記録の中に、手がかりがあるかもしれない」
逮捕されたゲアハルトの個人的な記録は、現在騎士団が保管している。正式な領地の帳簿ではなく、彼自身がつけていたと思われる私的なものだ。アリシアはその存在を既に把握していたが、まだ閲覧の手続きをとっていなかった。正式な帳簿とは別の個人記録があるとすれば、そこには公式の文書に書けないことが書かれている可能性がある。取引の相手方を直接記したメモや、資金の最終行き先を示す手控えが残っているかもしれない。
もちろん、何もないかもしれない。ゲアハルトがそれほど用心深い人間なら、証拠になり得るものを記録に残さないよう注意していたかもしれない。でも、長期にわたる複雑な取引を、記録なしに管理することは難しい。どこかに、何かを書き留めていた可能性はある。
「閲覧の手配を」
ヴォルフが頷いた。「明朝、揃えます」
報告が一通り終わり、ヴォルフが書斎を出た。ヴィクトールも立ち上がった。アリシアも立ち上がろうとすると、部屋を出かけたヴィクトールが、扉のところで振り向いた。
「アリシア」
名前だけで呼ばれた。いつもは「奥方」か「アリシア殿」だ。それとも今までも名前で呼ばれていたのだろうか。急いでそう考えたが、はっきりとは思い出せなかった。
「気をつけろ」
短い言葉だった。たった二言だ。情報漏洩が確認された今、城の外での行動や、見知らぬ人間への接触を避けるように——業務上の指示として、そう受け取ることができる。
(でも)
アリシアはその言葉を、頭の中で静かに繰り返した。気をつけろ。二言の中に、指示とは少し違う何かが滲んでいるような気がした。それが気のせいかどうか、アリシアには判断できなかった。判断しようとすること自体が、何か余計なことのような気もした。
「はい」と答えた。声は平静だった。少なくとも、そう聞こえたはずだ。
ヴィクトールが出て行った後、書斎に一人残って、アリシアは机の上の書類を整えた。積み重なった紙の端を揃え、几帳面に束ねる。手を動かしながら、頭の中では「気をつけろ」という二言が静かに残っていた。
心配されたのかもしれない。城に情報漏洩があると分かった以上、城内で調査を続けるアリシアにも危険が及ぶ可能性がある。だからこその言葉だ。そう解釈するのが自然だ。
それは分かっている。
それでも、あの二言が、何か別のものを運んでいた気がした。確信はない。根拠もない。ただ、確かに感じた何かがある。
残り一つ。ゲアハルトの個人帳簿の中に、その最後の一片がある可能性がある。
明朝、確認する。どうか、そこにあってほしい。アリシアは静かにそう思いながら、灯りを落とした。
続きも順次更新されます。よろしければ次話もお付き合いください。




