第44話 領民への損失
夜の書斎は静かだった。暖炉の火が落ち着いた赤みを帯びて、机の上の書類を照らしている。アリシアは昼間に整理した計算書を広げて、ヴィクトールを待った。
夕食の片付けが終わった頃に来ると聞いていたが、思ったより早かった。ヴィクトールが扉を開けて入ってきたのは、書斎の時計が八時を打った直後だった。
「待たせたか」
「いいえ、今しがた広げたところです」
椅子を引いて向かいに腰を下ろし、ヴィクトールはアリシアの手元の書類に目を向ける。昼間の報告を受けてから、何かを考え続けていたような目をしていた。疲れている、というのとは少し違う。重たいものを、内側に持っているような顔だ。アリシアはそれを見て、何も言わずにいた。言葉をかけるより、始めるほうがいい場合もある。
「先日お話しした損失額の計算です」とアリシアは言った。「三年分の産出量過少申告に対応する、本来得られたはずの収益との差額をまとめました。直接の横領分と、市場への影響を通じた機会損失を分けてあります」
ヴィクトールは書類を手に取り、数字の列に目を落とした。アリシアは説明を続けた。
「横領の分がここです。市場価格への人為的な操作によって生じた損失がここ。合計がこの数字になります」
「……大きいな」
ヴィクトールの声は低かった。感情を押さえた声だったが、アリシアはその一言の重さを感じた。数字は正直だ。見た人間がどう感じるかは、数字には関係ない。ただ、こうして実際に閲覧者の顔が変わる瞬間を見ると、自分が何を仕事にしているかを改めて思う。数字は現実の写しだ。
「この金額があれば——」アリシアは少し間を置いた。「採掘場の人員の賃金を、三年間にわたって平均で一割程度引き上げることができました」
ヴィクトールは顔を上げなかった。数字を見たまま、長い沈黙があった。指先が書類の端に触れている。その手が動かなかった。
「採掘場の設備の老朽化が進んでいると、以前から報告があがっていた」
「補修費用も計算しています」とアリシアは答えた。「三年分の損失の一部を充てれば、少なくとも主要な箇所の整備はできた。先送りされていた修繕が、この金額の範囲内で賄えていた計算です」
またヴィクトールが黙った。今度は少し長い沈黙だった。暖炉が静かに燃えている。外の夜風が、かすかに窓を揺らした。
「……私は知らなかった。三年間」
静かな言葉だった。自分を責める声ではなかった。責めていないのとも違う。ただ、事実を確認するように言った。まるで、声に出すことで初めて本当に受け取るような。
「閣下の責任ではありません」アリシアは言葉を選んだ。「記録は正常に見えるよう設計されていました。過少申告された数字は、前年比の変動幅の中に巧みに収まるよう調整されている。注意深く見ても、気づきにくかったはずです」
「……確認しなかったことは、事実だ」
アリシアは黙った。責任の所在を今ここで論じることは、アリシアの仕事ではないと思った。それはヴィクトールが自分の中で整理すべきことだ。外から何かを言っても、それは届かない。
難しい沈黙が続いた。暖炉の火がぱちりと音を立て、薪が少し崩れた。アリシアは炎が揺れるのを見ていた。
言葉が浮かんで、それを口にしていいか迷った。業務の報告の場でする話ではないかもしれない。自分は帳簿を読む人間であって、慰める言葉を持っている人間ではない。それでも、このまま沈黙を埋めずにいるのも違うと感じた。三年間、この城の主がどれだけのものを見逃されてきたか、それはアリシアには分からない。分からないけれど、今ここにいる人間が何かを背負っているのは見えた。
「取り戻せます」
ヴィクトールが顔を上げた。
「仕組みはもう分かっています。記録の操作の構造が明らかになれば、正しい数字を使って補正できる。ライヒェンバッハへの責任追及が進めば、損失の一部は回収の可能性もある。そして、同じことが二度起きない体制を作れます。私たちには、今それだけの材料が揃っています」
ヴィクトールがじっとアリシアを見ていた。その目に何かが動いた。
「……そうだな」
低い声だったが、その中に何かが固まった響きがあった。投げやりではない。前を向くための、静かな決意のような声だった。
(私は「私たちには」と言った。ヴィクトール閣下は、訂正しなかった)
アリシアはそのことに気づいて、すぐに書類に視線を戻した。当然のことだ。一緒に調査をしているのだから。でも、どうしても、胸の中で何かが小さく動いた。
書類を整理しようとしたとき、廊下から急ぎ足の音が聞こえてきた。すぐに扉が叩かれた。
「閣下、奥様。ヴォルフです。急報があります」
ヴィクトールが立ち上がった。「入れ」
扉を開けて入ってきたヴォルフの顔は、いつもの温和な色をしていなかった。「王都から、調査官が派遣されることになりました。表向きは『地域視察』とのことですが——」
「ライヒェンバッハが動いた」
ヴォルフが短く頷いた。「ほぼ間違いなく」
夜の書斎が、一瞬で違う空気になった。アリシアは広げていた計算書を静かに束ねながら、先ほどまでの静かな時間が遠くなるのを感じた。今夜の続きは、きっとまた変わる。
続きも順次更新されます。よろしければ次話もお付き合いください。




