第四十六話 最後の証拠
資金の最終移動先が、どうしても追えなかった。
アリシアは書斎の机に広げた帳簿を見つめ、左手の指先でこめかみを押さえた。王都からの記録、領地の収支帳、ゲルハルトが管理していた勘定書——それらを何度突き合わせても、資金がある時点から霧の中に消えてしまう。流れは見える。出所も見える。だが、最終的にその金がどこへ渡ったかを証明する一枚が、どうしても手に入らなかった。
「ここだけが、埋まらない」
独り言を言うつもりはなかった。口から出てしまったのは、集中しすぎた頭が少しだけ圧力を逃がしたせいだろう。
窓の外では細かな雨が降っていた。春の雨は静かで、雨粒が石畳を打つ音だけが書斎に届いた。ヴィクトールはこの朝、城の管理事務で席を外しており、書斎にはアリシアひとりだった。机の上には積み上げた写しの束と羽根ペンと、半分ほど飲んだままの冷えたお茶がある。そういう細々としたものが、この数週間のあいだに自然と増えた。気づけば、この書斎はアリシアにとって自分の場所になっていた。
扉がノックされた。
「奥方様、少しよろしいですか」
ヴォルフだった。いつもの穏やかな声だが、どこかに含みがある。アリシアは「どうぞ」と答えながら、ペンを置いた。手を止めたついでに、冷えたお茶を一口飲んだ。苦かった。
彼は入室すると、扉を静かに閉めてから、低い声で言った。
「ゲルハルトの尋問で、新しいことがわかりました。本人の私的な帳簿が、執務室とは別の場所に保管されていたそうです」
アリシアは顔を上げた。「別の場所、とは?」
「屋敷の床下、収納の奥に隠してあったようです。尋問の中で本人が話したと聞きました。旦那様が閲覧の許可を取ってくださっていて、明日には確認できます」
アリシアは立ち上がりかけた自分を、一度止めた。感情が先走るのは良くない。それが本当に最後の証拠になるかどうかは、実際に見てみなければわからない。私的な帳簿がそこにあったとしても、必要な記録が含まれているとは限らない。慎重に考えなければ。それでも胸の奥で、何かが小さく動いた気がした。証拠が八割揃っている状態で何日も足踏みしてきた。残り二割のその最後の一片が、もしかしたらそこにあるかもしれない。その可能性だけで、体の奥に熱が生まれるのがわかった。
翌日、許可を得て閲覧したゲルハルトの私的帳簿は、薄く黄ばんだ革表紙の小さな冊子だった。正式な帳簿よりずっと簡素で、個人が自分のために書き留めたものだということがすぐわかった。表紙を開く前に、アリシアは一度深く息を吸った。手が微かに震えているのに気づいて、自分で少し驚いた。これほど感情が出ることは、仕事中にはほとんどない。それだけ長く探していたということだろう。ページを繰ると、細かい字が整列している。収支の数字ではなく、あるページに「謝礼受領記録」と小さく見出しが書かれていた。
アリシアは息を止めた。
日付、金額、そして出所の欄。そこには「ライヒェンバッハ侯爵家直属商人」と、はっきりと記されていた。
指先で数字を辿った。流出記録の日付と一致する。金額も符合する。これは偶然では説明がつかない。ゲルハルトがライヒェンバッハ侯爵家から直接、謝礼という名目で金を受け取っていた——その事実を、本人が自分の手で書き留めていたのだ。隠す目的で床下に仕舞いながら、それでも消さずに記録していた。人間の奇妙な習性だと思った。あるいは自分だけは覚えていたかったのかもしれない。
「……見つかりました」
呟いた声は、思ったより静かだった。
書斎に戻り、ヴィクトールに報告した。机の向こうで書類に目を落としていた彼は、アリシアが差し出した帳簿のページを受け取り、静かに読んだ。読む速さは変わらなかった。表情も動かなかった。それでも何かが変わったのを、アリシアは感じた。室内の空気の密度が、わずかに増したような気がした。
「証拠は、揃いました」
アリシアがそう告げると、ヴィクトールはページから視線を上げた。
「……よくやった」
三文字だった。以前に一度、同じ言葉を聞いたことがある。あのときも短かった。だが今日の言葉は、それよりもっと短く、もっと確かだった。何の飾りもない分、その重さがそのままこちらへ届いた。感謝でも称賛でもなく、ただ事実として認めるような言い方だった。
アリシアは「ありがとうございます」と答えた。声が少し乱れないよう、意識して静かにそう言った。
この人は言葉が少ないほど本気なのだと、今度こそはっきりとわかった気がした。最初に「よくやった」と言われたとき、アリシアはそれが礼儀的な言葉なのか判断できなかった。儀礼として言うこともできる言葉だから。しかし今は違う。同じ言葉が、より短く、より直接的に届いた。余分な何かが一切ない言葉だった。それはこの数週間、この書斎で並んで仕事をしてきたからこそ受け取れる重さだった。
アリシアは証拠一式を整理しながら、それでもまだ少しだけ手が震えているのに気づいた。今度は達成感のせいだと思った。長かった。本当に、長かった。
その三日後の朝、ヴォルフが顔色を変えて書斎に来た。
「ライヒェンバッハ侯爵家からの使者が、ただいま城門に到着いたしました」
続きも順次更新されます。よろしければ次話もお付き合いください。




