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政略結婚先の帳簿を整えていたら、冷酷な辺境伯が手放してくれなくなりました  作者: ヲワ・おわり


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第三十八話 エリーゼの話

夜が深まった頃、アリシアの部屋をノックする音がした。


「失礼いたします、奥方様」


 マルタだった。手に小さな燭台を持ち、普段の仕事の顔とは少し異なる、どこか決意めいた表情をしていた。この時間に彼女が来るのは珍しい。昼間の忙しさをやり過ごして、ようやく来ることのできる時間を選んだように見えた。アリシアは書き終えた書類を脇に寄せ、「どうぞ、入って」と言った。


「少し、お話しする時間をいただけますでしょうか」


 アリシアは「もちろん」と答えた。


 マルタは椅子を勧められると、珍しく素直に座った。しばらく燭台の炎を見つめてから、ゆっくりと口を開いた。


「エリーゼ様のことを、きちんとお話ししたいと思っておりました。ずっと」


 アリシアは黙って続きを待った。名前は何度か聞いた。ヴィクトールの先妻。三年前に亡くなった。それだけしか知らない。マルタが今夜ここに来たのは、その話をするためだと、アリシアには直感的にわかった。


「エリーゼ様は、お体が丈夫ではありませんでした。生まれつき肺が弱く、冬になるたびに咳をされていた。でも——いつも笑っておられた。体が辛くても、そのことを表に出されなかった」マルタの目が、遠いところへ向いた。「城の使用人が何か失敗をすれば、真っ先に庇われた。厨房の者たちが試した新しい料理を、必ず一口食べて感想を言われた。どんなに小さなことでも、見ていてくださる方でした。そういう方でした」


 しばらく沈黙があった。マルタは燭台の炎を見たまま、何かを思い出すように目を細めた。「旦那様は、エリーゼ様のことをとても大切にしておられました。表には出されませんでしたが、私たちには伝わっていた。お二人が廊下ですれ違うとき、エリーゼ様が何かを言って笑われると、旦那様の顔が少しだけ緩む——そういう瞬間を、私は何度も見ておりました」


 アリシアは、その人物像が静かに胸の中に降りてくるのを感じた。弱い体を持ちながら、周囲の人間を常に見ていた人。その明るさはきっと、努力して保っていたものだったのではないかと思った。病の日でも笑い続けるというのは、傍で見ている人間への思いやりでもあったはずだ。


「三年前の冬です。例年より寒さが厳しくて、北の山からの風が止まらない日が続きました。エリーゼ様は十一月の終わりから発熱され、一度回復されたと思ったらまた悪化して——」マルタの声が少し揺れた。「旦那様は当時、国境付近の視察に出ておられました。急報を出しました。でも、道中の天候が荒れていて、何日もかかってしまった」


 沈黙が落ちた。部屋の炎がわずかに揺れた。


「旦那様が戻られたとき、エリーゼ様はもう——」


 マルタはそこで言葉を切り、軽く目を閉じた。続きを言わなくてもわかった。アリシアは黙って待った。


「旦那様は、自分を責めておられます。今も、きっと。あのとき帰っていれば。あの視察に行かなければ。早く決断していれば——そうした言葉が、ずっと頭の中にあるのだと思います。誰も旦那様を責めておりません。城の者も、私も。エリーゼ様ご自身も、そんなことを思われなかったはずです。でも旦那様は、それを受け取れない方なのです」


 アリシアの胸の中で、何かが静かに嵌まり込んだ。


 ヴィクトールが感情を表に出さない理由。人との距離を変わらず保つ理由。自分が感情を持つことを、まるで戒めるかのように振る舞う理由。


 感情を動かすことは、失うことを思い出すことだから。何かを大事にすれば、また失うかもしれないから。そうやって鎧を着込み、内側を守ることで、どうにか立っていられる。——アリシアにはそれが、今はっきりと見えた気がした。彼は感情を持っていないのではない。感情があるからこそ、あれほど慎重に蓋をしているのだ。


「奥方様は、エリーゼ様とは全く違うお方です」マルタが静かに言った。「帳簿を読んで、不正を見つけて、旦那様と並んで調査をされている。エリーゼ様には、そういったことはできませんでした。でも、私はそれが悪いことだとは思っておりません。違う方が来られたことで、旦那様が少しずつ動けるようになるなら——」


 マルタはそこで言葉を止め、少し照れたように目を伏せた。「長々と失礼いたしました」


 アリシアは少し間を置いてから、「話してくれてありがとう」と言った。声が静かに出た。それ以上の言葉はうまく出てこなかったが、マルタには届いた気がした。


 マルタは立ち上がり、丁寧に一礼して部屋を出た。扉が静かに閉まる音がした。


 残された静寂の中で、アリシアは窓の外を見た。雲の切れ間から星がいくつか見えた。冷たく澄んだ光が、遠い距離からこちらを見ていた。


 ヴィクトールが感情を鎧の下に閉じ込めているのは、弱さではない。あれだけの重さを、誰にも見せずに三年間抱えてきた結果だ。彼が「稼働中の記録を確認してほしい」と頼んだとき、あるいは「取り戻す」と静かに言ったとき——そこに感情がないわけではない。ただ、出し方を失っているだけだ。アリシアはそれを、今夜初めて、はっきりとした形で理解した気がした。

続きも順次更新されます。よろしければ次話もお付き合いください。

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