第三十六話 まだ起きているのか
廊下の燭台はすでに数が減っていた。城の夜半過ぎには、節約のために火を落とす場所がある。アリシアが歩いているこの翼廊もそうで、等間隔に並ぶ燭台のうち半数以上が消えていた。残った炎が細く揺れて、石壁に複数の影を伸ばしている。足元の石畳は昼間の温もりをとうに失っていて、薄い室内靴を通して冷気がじわじわと上がってきた。
今日も長くなってしまった、とアリシアは思いながら歩いていた。文書庫で書類を整理し、執務室に戻って帝都への照合用の記録を書き直し、気がつけば夜もとっくに深まっていた。体は疲れている。しかし頭の中はまだ回り続けていて、横になっても眠れないかもしれないと思いながら、それでも自室へ向かっていた。
廊下の向こうから足音が来た。
アリシアは反射的に足を止めた。この時刻に廊下を歩く者は少ない。燭台の薄明かりの中に人影が見えて、それがヴィクトールだと分かったのは、あと数歩というところだった。
ヴィクトールも気づいた。歩みがほんのわずか緩んだ。互いの距離が縮まって、残った燭台一本分の明かりの輪の中で、向き合う形になった。
「まだ起きているのか」
低い声だった。問い詰めるわけでも咎めるわけでもなく、ただ確認するような声だった。アリシアはその言葉の平坦さに、一瞬どう返すべきか迷った。
「整理をしていました。今終わったところです」
「……毎晩か」
また一言。ヴィクトールの声には抑揚が少ない。だからこそ、その短い一言に何が含まれているのか、アリシアにはよく分からなかった。疑問なのか、確認なのか、それとも別の何かなのか。
「毎晩ではありません。今日は気になることがあって、少し長引いてしまいました」
「何が気になっていた」
予想していなかった問いだった。アリシアは少し間を置いてから答えた。
「帝都からの記録が届いたとき、何をどの順番で照合するか。頭の中で整理しておきたかったので」
ヴィクトールは無言だった。否定も肯定もしない。ただそこに立って、アリシアの言葉を受け取っているように見えた。廊下の冷気が二人の間にあった。城の外で低く風が鳴っている。壁の向こうから来る音で、くぐもって遠い。
それきり言葉が続かなかった。沈黙が伸びて、アリシアはそろそろ「おやすみなさい」と言うべきかと考え始めた。
ヴィクトールが口を開いた。
「無理をするな」
それだけだった。
言った直後、ヴィクトール自身が何かに気づいたように、わずかに間が生まれた。視線がアリシアから少しだけ外れて、それからすぐ正面に戻った。
「……帝都からの記録は、明朝には届くはずだ。来たら知らせる」
そう付け加えて、ヴィクトールはそのまま廊下を歩き続けた。アリシアの脇を静かに通り過ぎ、暗い廊下の奥へ消えていった。足音が石畳の上を規則正しく遠ざかって、やがて聞こえなくなった。
アリシアはその場に立ったまま、ヴィクトールが消えた方向を見ていた。
無理をするな。
その言葉を、頭の中でもう一度繰り返した。
仕事の指示ではない。「早く寝て明日に備えろ」という実務上の命令とは、語感が違う。あれは、体を気にかける言葉だ。人に対して言う言葉だ。調査のための道具に向けるのではなく、そこにいる誰かに向けて言う言葉。
アリシアは、この城に来た当初のことを思い出した。ヴィクトールはアリシアをほとんど見なかった。挨拶は最小限で、食事の席でも口数が少なく、報告を聞いても短く頷くだけだった。それは拒絶ではなかったかもしれないが、歓迎でもなかった。政略婚約の相手として、事務的に処理されていると感じることが何度もあった。
それがいつから変わってきたのだろう。
調査が始まってから、少しずつ、対話の密度が上がってきたとは思っていた。報告を聞くヴィクトールの目が違う。表情は変わらないが、確かに聞いている。考えている。返答が短くても、その短さの中に何かがある。
そして今夜の言葉。
無理をするな——あれは、道具に言う言葉ではない。
アリシアは廊下の暗がりに一人で立っていた。城の外で風が鳴っていた。低く、くぐもった音が壁越しに伝わってくる。燭台の炎が空気の流れを感じて細く震えた。
自分は今、何を考えようとしているのだろう、とアリシアは思った。
あの言葉の意味を量ろうとしている。ヴィクトールがどういうつもりで言ったのかを考えようとしている。しかし答えは出なかった。今夜はまだ、そこまで辿り着けない。
ただ、一つだけ分かることがある。
「無理をするな」と言われたとき、心の奥でわずかに何かが緩んだ。緊張ではない。警戒でもない。もっと柔らかいもの。張り詰めていた糸が、ほんの少しだけ弛む感じ。名前のつけにくい、小さな感覚だった。
それが何を意味するのかは、まだ分からない。
アリシアは自室へ向けて歩き始めた。足音が石畳の上に低く落ちる。残り少ない燭台の明かりが揺れて、壁の影が動いた。
翌日、ヴィクトールの執務室で週次の報告が行われた。アリシアが調査の進捗を述べ、ヴィクトールが聞き、質問があれば短く交わす。それはすでに二人の間でかなり自然な流れになっていた。報告を終えてアリシアが退出しようとしたとき、ヴィクトールが言った。「来週も報告に来い」。命令というより、当然のことを述べるような口調だった。アリシアは「はい」と答えて部屋を出た。いつの間にか、それが習慣になっていた。
続きも順次更新されます。よろしければ次話もお付き合いください。




