第三十五話 城内の目
ヴォルフが執務室に顔を出したのは、その翌朝のことだった。
「アリシア様、少しよろしいですか」
声のトーンが、いつもと違った。軽やかさがない。アリシアは手を止め、顔を上げた。
「どうぞ」
ヴォルフは扉を閉めてから近づいてきた。部屋の中を一度確認するような素振りで、それから声を落として話し始めた。
「ゲルハルトの部下の使用人の一人が、昨日の朝から城に戻っていません」
アリシアは静かに問い返した。「休暇を取っていたのですか」
「昨日は公休でした。ですが今朝になっても姿が見えない。宿舎の部屋を確認させましたが、荷物はそのままです。どこへ行ったか、他の使用人たちは誰も知らないと言っています」
アリシアは少し考えた。荷物がそのままということは、逃亡ではない。急いで城を出て、その日のうちに戻るつもりでいた。あるいは今も戻るつもりでいる。ならば、行き先は遠くない。
「その者は、ゲルハルトと直接やり取りをしていた人物ですか」
「屋敷内の連絡役を務めていた使用人です。文書を扱う仕事もしていたと聞いています。ゲルハルトの逮捕後も特に問題なく業務を続けていましたが——そのまま残しておいたことが、よくなかったかもしれません」
ヴォルフが自分を責めるような口調になったので、アリシアは首を振った。「あなたのせいではありません。逮捕直後に全員を拘束するわけにはいかない」
「……そうですね」ヴォルフは少し表情を和らげた。「それでも、見落としでした」
窓の外で鳥が鳴いた。朝の光がまだ斜めに差し込んでいる。文書庫の作業で目を細めることに慣れてきた目に、その光はまだ白く眩しかった。
「帝都の方向に向かった可能性はありますか」
「……あります。城下を出た後、帝都街道の方へ向かう姿を見た者がいました」
帝都街道。ライヒェンバッハ侯爵家の膝元へ続く道だ。報告をしに行ったのだとしたら、内容は一つしかない。帝都からの記録請求のこと、帳簿の目録のこと、そして空白の発見のこと。
「では」とアリシアは静かに言った。「私の動きも、伝わっているかもしれませんね」
感情を揺らさないように意識しながら声に出した。ヴォルフは少し間を置いてから答えた。
「……その可能性は、あります」
沈黙が部屋に落ちた。帳簿の調査が始まって以来、何を調べ、何を見つけ、何を帝都に要請したか。もしそれが逐一報告されているとしたら、相手はすでに動き始めているかもしれない。証拠の追加隠滅、証人への圧力、あるいはもっと直接的な妨害。
ライヒェンバッハ侯爵家には、そのための力がある。帝都に根を張った商人のつながりがある。二十二年間、誰にも気づかれずに詐取を続けてきた組織だ。こちらの動きが筒抜けになっているとすれば、何をされるか分からない。
だが今できることは、慌てることではない。
「分かりました」とアリシアは言った。「これ以降、調査の内容については城内のどこでも話しません。執務室の外では、帳簿に関わる話は一切しないようにします。クラウスにも伝えます」
「それが賢明です。私の方で、その使用人の足取りを追ってみます。どこで誰と会ったか。それだけでも分かれば、ライヒェンバッハ家とのつながりが具体的に見えてくるかもしれない」
「無理はしないでください」
アリシアが言うと、ヴォルフは少し驚いたような顔をした。それからくしゃっと、年齢より若く見える笑顔になった。
「そういうことを言うのはこちらの台詞です。アリシア様こそ、毎晩遅くまで文書庫に籠もっているではないですか。クラウスから聞いています」
「あれは必要な作業で——」
「私の方が心配です、アリシア様のことが」
ヴォルフはそう言って、軽く一礼してから部屋を出て行った。
アリシアはしばらく扉を見ていた。
心配している、と言われた。単純な言葉だ。社交的な言い回しかもしれない。だが、あの表情は演技ではなかった。
アリシアは一人でこの城に来た。頼れる者も、気を許せる相手も、最初は誰一人いなかった。知っている顔も、慣れ親しんだ場所も、父の声もなかった。それでも仕事はできる。一人でも動ける。そう思っていたし、そのつもりでやってきた。
しかし今、動きを気にかけてくれる人間がいる。情報を持ってきてくれる人間がいる。「心配だ」と正直に言ってくれる人間がいる。
これが友というものかもしれない、とアリシアは思った。友、という言葉を使うのが早すぎるかもしれない。社交界の「友人」とはまた違う。損得ではなく、同じ場所に立っているから気にかけてくれる、そういう関係。
完全に一人ではないという感覚が、確かにそこにあった。
アリシアは書類に視線を戻した。集中を取り戻しながら、一つだけ決めた。ヴォルフが動いてくれている間に、自分は手元にある記録を一ページも見逃さない。それが、信頼に応える方法だ。
数日が過ぎた。
その夜も遅くなってしまった。文書庫で書類を整理し、執務室で記録を照合し、気がつけば廊下に明かりが少ない時刻になっていた。アリシアは自室へ戻ろうと廊下に出た。石の床が冷えていて、足音が低く響く。燭台の炎が空気の流れに揺れていた。
廊下の向こうから人影が来た。
ヴィクトールだった。
続きも順次更新されます。よろしければ次話もお付き合いください。




