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政略結婚先の帳簿を整えていたら、冷酷な辺境伯が手放してくれなくなりました  作者: ヲワ・おわり


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第三十四話 空白の証拠

帝都への書面を送り出した翌日から、アリシアは文書庫に戻った。


 帝都からの返答を待つ間にできることがある。手元の記録を一つ残らず把握しておくことだ。アリシアは残存する全ての帳簿と関連資料の目録を作り始めた。棚ごとに、年ごとに、何が保管されているかを書き出していく地道な作業だ。クラウスも隣で別の棚を担当していたが、今日は午前で上がらせた。目録の作業は一人でできるし、一人の方が集中できることもある。


 午前のうちに三年分を終え、四年前の棚に取りかかったとき、手が止まった。


 一冊、ない。


 正確には、一冊分の空白がある。棚の並びに沿って確認していくと、ある一ヶ月の月次帳簿だけが見当たらなかった。前後の月はある。その月だけが、ない。


 アリシアはもう一度、棚全体を確認した。棚の後ろに落ちていないか。別の棚に混じっていないか。隣の棚、向かいの棚、足元の箱の中まで一通り探したが、見つからなかった。


 三年前の、秋のはじめの月だ。


 アリシアは目録の紙を見た。そこだけぽっかりと空いている。二十二年分の連続した記録の中に、この一ヶ月だけが欠けている。


 三年前の秋。


 ライヒェンバッハの商人がゲルハルトに最初に接触してきたのは、三年前だとヴィクトールが言っていた。


 アリシアは静かに椅子に座った。窓から差し込む光が、棚の背を照らしている。帳簿の背表紙が年月順に並んでいる中で、一ヶ所だけ背表紙のない隙間がある。その隙間を、アリシアはしばらく見つめた。


 この一致は偶然ではない。最初の接触が行われたのと同じ月の記録が、消えている。その月に何が起きたか、何が書かれていたか——それを知ることができる帳簿が、存在しない。ゲルハルトが事前に処分したのだ。おそらくは、調査が始まると察した時点で。あるいは、もっと前から計画していたのかもしれない。


 しかし。


 アリシアは目録の紙を見直した。


 二十二年分の帳簿が、一つの欠けもなく保管されている。そこに、一ヶ月だけ欠けている。これは単なる紛失ではない。毎年、毎月、欠かさず作成されてきた記録に、突然一ヶ月の空白がある。紛失というものは、通常ランダムに起きる。整理の不手際があれば、複数の年にわたってまばらに欠ける。しかしこの空白は一点だけだ。しかも、最も重要な時期と重なっている。組織的な記録管理の中で、そういう欠けが偶然起きることはない。


 「何もないこと」が、何かを証明している。


 その考えが浮かんだとき、アリシアの胸の中で何かが静かに固まった。


 取引の開始日を直接証明する帳簿はない。しかし、二十二年間続いた連続した記録の中に、この一ヶ月だけが欠けているという事実は残る。欠けていること自体が、記録として機能する。これを示すことができれば——意図的な消去があったと主張できる根拠になる。父も言っていた。証拠がないことは、証拠がないことの証明になる場合がある、と。


 午後、アリシアはヴィクトールの執務室を訪ねた。


「ご報告があります。文書庫の目録を作成していたところ、三年前の秋の月次帳簿が一冊、存在しないことが分かりました」


 ヴィクトールは表情を変えなかったが、目に何かが走った。


「前後の月は」


「あります。その月だけが、ありません。棚の別の場所も確認しましたが、見つかりませんでした」


「取引開始の月と重なる」


「はい。偶然ではないと思います」


 沈黙が落ちた。ヴィクトールは机の前で少し考える時間を取った。窓の外で風が吹く音がして、建物が低くきしんだ。


「空白を証拠にすることはできるか」


「二十二年間、一月も欠けることなく記録されてきた帳簿に、この一ヶ月だけ欠けている。これが組織的な記録管理の誤りで生じた可能性は、限りなく低い。意図的な消去だと主張することは——論理として成立します」


「……使える」ヴィクトールは低く言った。「帝都からの記録と照合する際に、この空白も証拠の一つとして提示できる」


 アリシアは頷いた。


「ただ——もう一つ気になることがあります」


「何だ」


「城内に、まだ情報が漏れている可能性があるとヴォルフ様が言っていました。帳簿が消えたのがいつかを考えると——私が調査を始めてから処分された可能性もある。そうだとすれば、城内にまだ動いている人間がいることになります」


 ヴィクトールの目が、少し鋭くなった。その鋭さは怒りではなく、問題を測っている目だった。


「引き続き調べる」と彼は言った。「あなたは目録の作業を続けてくれ。他に欠けているものが出るかもしれない」


「はい」


 執務室を出てから、アリシアは文書庫の棚の隙間を思い返した。あの一ヶ月の空白が、静かにそこにある。見えないものが、確かに存在している。

 アリシアは文書庫を後にしながら、帳簿の「空白」という概念について改めて考えた。


 通常、証拠とは「存在するもの」だ。書類がある、数字がある、署名がある。しかし今回は「ないもの」が証拠になりうる。二十二年間連続している記録の中で、一ヶ月だけが消えている。それは整理ミスや保管ミスでは説明がつかない。意図して消されたものだ。「意図して消された」という事実は、そこに「消されるべき何か」があったことを示している。


 父が言っていた。「空白には意味がある。帳簿の空白は、誰かが何かを隠した場所だ」と。


 証拠の欠如が証拠になる——そういう論理があることを、アリシアは今この城で初めて、実務として体験した。

続きも順次更新されます。よろしければ次話もお付き合いください。

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