第三十三話 共同の書面
翌日の午後、ヴィクトールの書斎に呼ばれた。
アリシアが草稿を持って入ると、ヴィクトールはすでに机の前に座っており、羽根ペンと清書用の紙を用意していた。作業を始める前から、役割の分担が自然に決まっているような空気があった。窓からは昼下がりの光が斜めに差し込み、机の上の紙が白く光っていた。
「草稿を見せてもらえるか」
「はい」
アリシアは紙を机の上に広げた。ヴィクトールは手を伸ばして受け取り、黙って読み始めた。アリシアは少し離れて、机の端に立って待った。書斎の炉が低く燃えており、窓の外では風が吹いていた。松脂の燃える微かな匂いがした。
「国庫の記録管理部門に宛てた形にしているな」
「はい。財務監督の部署に直接送ると、経路が複雑になります。管理部門を経由すれば、正式な手続きとして通りやすく、かつ相手がどの部署かを特定されにくい」
「ライヒェンバッハの名前は出していない」
「出せません。この段階で名指しをすれば、請求自体が止められる可能性があります。あくまで、定期的な財務確認の一環として請求する形を取っています。読んだ者に、こちらの意図が伝わらないよう作っています」
ヴィクトールは草稿を机に置き、ペンを取った。数行読んだあと、一か所に線を引いた。
「ここ——『当領の財務管理の適正性を確認するため』という文言は、もう少し具体的にした方がよくないか。曖昧すぎると、後回しにされる」
「おっしゃる通りです」アリシアは少し考えた。「『昨年度の採掘収益と精錬費用の照合に際し、基準値の参照が必要なため』としましょうか。具体性を持たせつつ、目的を特定させない」
「それでいい」
ヴィクトールが修正を書き入れる間、アリシアは草稿の別の箇所を見直した。語尾の表現が、一か所だけ他と調子がずれている。
「七行目の語尾ですが——他は丁寧体で統一しているのに、ここだけ指示形になっています。格式のある書面は語尾の統一が重要です。受け取る側の受け印象が変わります」
ヴィクトールは七行目を見た。「直す」
しばらく、互いに言葉少なく作業が続いた。ヴィクトールが書き、アリシアが確認する。アリシアが気づいた点を指摘し、ヴィクトールが判断する。それだけの、静かなやり取りだった。
しかしアリシアは、この時間が不思議と苦ではなかった。むしろ、どこか落ち着いた気持ちで机の前に立っていた。父の商会でも、こういう時間があった。大切な書面を作るとき、父は言葉の一つ一つを確かめながら書いた。そのそばに座って、自分も一緒に確かめた。似ている、と思った。もちろん、父とヴィクトールはまったく別の人間だ。しかし、作業の進め方の密度が、似ていた。
「帝都の国庫は公平だと思いますか」
作業の合間に、アリシアは口に出した。問いとも独り言ともつかない調子で。
「……原則としては、そうなっている」ヴィクトールは筆を止めずに答えた。
「書かれたものは嘘をつかない。でも、書かれていないことについては、また別の話です」
「それを言ったのは誰だ」
「父です」
ヴィクトールは一瞬だけ手を止めた。それからまた書き始めたが、今度は何かがわずかに変わった気がした。表情が緩んだとも言えない。しかし確かに、何かが動いた。ペンの動きが、ほんのわずかだが穏やかになった気がした。
書面が一通できあがったのは、窓の外が夕暮れ色に変わり始めた頃だった。ヴィクトールが最後の行を書き終え、二人で全体を読み直した。アリシアは立ったまま、ヴィクトールは机の前で、同じ紙面を順に確かめた。
「口実として成立しているか」
「はい。内容を精査しても、通常の財務確認と区別がつかない文面になっています。対応を遅らせる理由も与えていない。丁重かつ具体的で、断りにくい形になっています」
ヴィクトールは書面を乾かしながら言った。
「文体が適切だ。拒否されることはないだろう」
「ありがとうございます」
「あなたが書いたものだ」
そっけない返し方だったが、アリシアにはそれで十分だった。褒め言葉を飾らない人だということは、もう分かっている。飾らない分、言葉の重さが素直に届いた。
「到着まで数日、返答まで一週間以上かかるでしょうか」
「おそらく。記録の複写には手間がかかる」
「その間、こちらでできることを続けます。文書庫の残りの整理も、まだ終わっていないので」
ヴィクトールは頷いた。書面を封じながら、視線を手元に向けたまま言った。
「週に一度、報告の場を設けよう」
アリシアはわずかに驚いた。定期的な報告の場を、彼の方から提案するとは思っていなかった。しかし表情には出さずに、静かに答えた。
「はい。そうしていただけると助かります」
書斎を出ながら、アリシアは廊下の窓を一度見た。夕暮れの光が壁に橙色を落としていた。書面が完成したことよりも、この静かな作業の時間の方が、何か大切なものを含んでいる気がした。
同じ机の前で、同じ書類を向き合って確かめた時間。特別なことは何もなかった。余分な言葉も、気の利いた会話も、なかった。それでも、帝都への返答が届くまでの間に、何かが少しずつ変わっていく予感があった。アリシアはその感覚を、まだ言葉にするつもりはなかった。ただ、そっと手の中に持っておく、そういう種類のものだと思った。
続きも順次更新されます。よろしければ次話もお付き合いください。




