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政略結婚先の帳簿を整えていたら、冷酷な辺境伯が手放してくれなくなりました  作者: ヲワ・おわり


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第三十二話 ライヒェンバッハという名

ヴォルフを廊下で捕まえたのは、昼食の後のことだった。城内は表向き平静を保っていたが、使用人たちの視線の質が変わっていた。何かを知っているような、何かを知りたくないような、そういう目つきだ。ゲルハルトが連行されて以来、食堂の空気も少し変わった気がした。


 アリシアはさりげなく声をかけた。「少しよろしいですか」


 ヴォルフはいつもの気安い調子で振り返り、「もちろんです」と言いかけて——「ライヒェンバッハという名前を聞いたことがありますか」とアリシアが続けた瞬間、その表情が変わった。


 笑顔が消えたのではない。笑顔の下に何かが走った、という感じだ。一瞬の変化だったが、アリシアはそれを見た。


「……どこでその名前が出ましたか」


「ゲルハルトの供述から」


 ヴォルフは短く周囲を確認してから、「少し場所を変えましょう」と言った。


 近くの資料保管室に入り、扉を閉めた。廊下からの物音が遠くなり、部屋の中に二人分の呼吸だけが残った。ヴォルフの顔から、いつもの軽さが完全に抜けていた。


「座ってください」


 アリシアが促すと、ヴォルフはむしろ自分から椅子を引いた。いつも立ったまま話すことが多い彼が、自分から座るのは珍しかった。


「ライヒェンバッハ侯爵家は、帝都で二番目か三番目に大きな勢力を持つ家です。代々、国境地帯の資源に目を向けてきた。特に魔石の採掘権には、長年執着しています」


「なぜノルデンの採掘権に」


「ノルデンの魔石は品質が高い。純度が帝都近郊で採れるものとは段違いです。それを手中に収めれば、帝都の魔道具産業のかなりの部分を支配できる。魔道具というのは今や生活必需品です。その原料を押さえることは、巨大な利権になる」


 アリシアは静かに聞いていた。産業という言葉が頭の中で展開されていく。単に採掘収益の横取りではない。それはもっと大きな構造の中の、一つの足がかりだ。


「ライヒェンバッハは、なぜヴィクトール様と仲が悪いのですか」


 ヴォルフは少し言葉を探した。


「……国境領主というのは、特殊な立場です。直接、王家に連絡を取ることができる。通常の貴族が帝都の序列を経由しなければならないのに対して、国境の要地を守る家は、緊急時に直接申し上げる権利を持っている。それを好まない家がある」


「ライヒェンバッハが、そうした家の筆頭だと」


「はい。彼らにとって、ヴィクトール様のような立場の家が力を持っていることは、おもしろくない。帝都の序列の外に、直接の王権へのルートを持つ家がいる。それは、帝都の勢力図を動かそうとしている者たちには邪魔なのです」


 ヴォルフが一拍置いた。


「ノルデンの財政を弱らせることが、目的の一つだった可能性があります。採掘収益を削り、領地を疲弊させ、最終的に採掘権の移譲を迫る——あるいは、財政難を理由に帝都への依存を深めさせる」


 アリシアはゆっくりと椅子の背に体重を預けた。窓の外に見える空は、灰色の雲に覆われていた。


「では、これは単なる不正経理ではなく」


「政治的な攻撃です」とヴォルフは静かに言った。「最悪の場合、ノルデンを弱体化させて、領地ごと吸収することが目的だったと考えられる」


 室内がしばらく静かになった。アリシアは脳裏で規模を整理した。ゲルハルト一人の横領、という最初の見立てはとっくに外れていた。外部の組織との繋がりは知っていた。しかしそれが侯爵家レベルの政治的思惑と繋がっているとなれば、次元が変わる。これは帳簿の問題ではなく、ノルデンそのものの問題だ。


「私の動きも、帝都に報告されている可能性がありますね」


「……残念ながら、否定できません。ゲルハルトが接触していた商人たちが、まだ動いている可能性がある」


「では、早く動く必要がある。ただし、こちらが何をしているか、先に知られないように」


「おっしゃる通りです」ヴォルフはアリシアを見た。その目には、軽さとは別の、真剣な光があった。「ヴィクトール様とご一緒に、帝都への正式な記録請求の書面を作ることをお勧めします。それが今できる最も確実な一手です」


「実は、すでにヴィクトール様とその話をしました。私が草稿を書きます」


 ヴォルフが少し目を細めた。驚きとも安堵とも取れる顔だった。


「さすがです、奥方様。それならばご安心です」


 それから、彼はわずかに眉をひそめた。「ただ——一つお願いがあります」


「何でしょう」


「書面の内容を、城の中では極力話さないでください。城内に、まだ目があるかもしれない」


 アリシアは静かに頷いた。その言葉の重さを、余計な感情を加えずに受け取った。


 部屋を出てから、廊下を歩きながら考え続けた。ライヒェンバッハ。侯爵家の影が、はるかノルデンの帳簿の奥に三年前から忍んでいた。この城に来た最初の日から、自分は知らずにその影の中にいたことになる。そしてその影は今も、どこかでこちらを見ているかもしれなかった。


 父は言っていた。「大きな取引には、必ず大きな意図がある」と。目の前の数字だけを見ていると、その意図を見逃す。帳簿の奥に何があるかを読むには、書いた人間の動機を想像する力が要る——と。三年前の帳簿の歪みは、今になって初めてその全体像を見せ始めていた。アリシアはヴィクトールのもとへ戻る足を少し速めた。書面を作ることが、今できる最も重要なことだった。

続きも順次更新されます。よろしければ次話もお付き合いください。

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