第三十一話 侯爵家の影
翌朝、ヴィクトールが執務室に来た。
アリシアが資料を整理していると、扉が開く前に短いノックがあった。入ってきたヴィクトールは、椅子を引かずに立ったまま話し始めた。訊問の結果を伝えに来たのだと、すぐにわかった。
「ゲルハルトの供述が出た。話を聞くか」
「はい」
アリシアは筆を置き、背筋を正した。
「三年前——ライヒェンバッハ侯爵家の商人が最初に接触してきた。場所はノルデンの城下町だ。名目は宝石商の視察。ゲルハルトはその商人と個別に面会し、提案を受けた」
「提案の内容は」
「採掘量を過少申告する代わりに、年額で一定の支払いをする——というものだ。支払いは現金ではなく、別の取引を迂回させる形で行われていた。ゲルハルトの親族が経営する小さな運送業に、実態のない仕事が発注されていたらしい」
巧妙なやり口だ、とアリシアは思った。直接金を渡せば証拠が残る。しかし別の取引に紛れ込ませれば、表面上は普通の商取引として見える。それを三年間続けた。
「ゲルハルトが応じた理由は」
ヴィクトールはわずかに間を置いた。
「"領地のため"だったと言っている。ライヒェンバッハが採掘権を取得すれば、大規模な投資をする。ノルデンの産業を発展させるという約束があったらしい」
「それを信じたのでしょうか」
「信じたかどうかは分からない。しかし都合のいい理由があれば、人は動きやすくなる」
アリシアは窓の外を一度見た。灰色の空に、鳥が一羽横切った。領地のため、という言葉は重い。欲だけで動いたのか、本当に何かを信じていたのか——ゲルハルトの内側を、アリシアは知りたいとは思わなかった。しかし、動機が複雑であるほど、裁くのは難しくなる。
「書面による記録は」
「ない。すべて口頭の取り決めだったとゲルハルトは言っている」
「意図的に書かなかったのか、それとも最初から証拠を残さないための設計だったのか」
「おそらく後者だろう。接触してきた側が、そういう商い方を好む連中だとすれば」
アリシアは手元の紙に短く書き留めた。三年前。侯爵家側の商人。口頭取引。迂回支払い。親族運送業への架空発注。整理してみると、仕組みの全体が見えてくる。これは、場当たり的に始めたものではない。最初から計算された構造だ。
「ならば手元にある物証は、私たちが持っている帳簿の記録だけということになりますね」
「そうなる」
「帝都側の記録はどうなりますか。ライヒェンバッハ関係の取引が、こちらの帳簿と整合する形で残っていれば、立証の足がかりになるはずです」
ヴィクトールがわずかに眉を動かした。「それが問題だ」
「帝都の財務記録に、そうした記録がないかもしれない。あるいは——」
「整理されている可能性もある」とヴィクトールは静かに続けた。「ライヒェンバッハほどの家であれば、帝都の記録管理にも影響力を持つ。書かれていないことについては、我々には何もできない」
アリシアはしばらく考えた。ヴィクトールの言っていることはわかる。権力のある家は、自分たちに都合の悪い記録が残らないように動く。それは商人の世界でも同じだ。大きな商会と揉めたとき、表向きの取引記録は誰にでも見える形で綺麗に保たれている。しかし、それが全てではないことを、アリシアは父の話から知っていた。
「帝都の国庫からの年次財務記録を、請求することはできますか」
ヴィクトールの視線が少し鋭くなった。
「国庫記録か」
「ライヒェンバッハ関連の商取引が記録されていれば、こちらの帳簿の数字との照合ができる。完全な証拠にはならなくても、整合性の確認にはなる。また、もし記録が存在しないか、あるいは不自然に欠けていれば——それもまた一種の情報です。何かが書かれていないことの形が、何かを示すことがある」
ヴィクトールは少しの間、何も言わなかった。部屋の中に、炉の燃える音だけが続いた。窓の外ではいつの間にか薄雲が動き、光が少し変わっていた。
「……手を打つ価値はある」
「はい。ただ、請求の文面は慎重に選ぶ必要があります。目的を悟られずに、正当な手続きとして通るような書き方で。こちらが何を知っているかを、先に相手に教えてしまうことは避けなければならない」
ヴィクトールはアリシアをまっすぐ見た。
「そういう書き方を、知っているか」
「父が帝都の商人と長年取引をしていました。書面の作り方は、傍で見てきています」
ヴィクトールが初めて、ごくわずかに表情を緩めた気がした。答えを求める目が、何かを確かめる目に変わる、あの瞬間の感じだ。
「では書いてもらえるか。草稿を見る」
「はい」
部屋を出ながら、アリシアはもう頭の中で文面を組み始めていた。どこに着地させ、何を匂わせず、どの表現で正当性を装うか。父ならこう書く、という感覚が、手の中にある。帝都に送る書面は、ただの書類ではない。これは、こちらの動きを相手に読まれることなく情報を引き出すための、静かな駆け引きの一手だ。
廊下を歩きながら、アリシアは三年前という言葉を反芻した。ライヒェンバッハが動き始めたのは三年前。ちょうどゲルハルトが城外の商人と接触を始めた時期と重なる。偶然の一致ではない。何かが始まった年に、何かが仕込まれた。その痕跡を今から掘り返すのが、自分たちの仕事だ。書面を作ることと、帳簿を読むことは、アリシアにとって同じ行為の裏表だ。どちらも、言葉と数字の向こう側にある意図を読む作業だった。
続きも順次更新されます。よろしければ次話もお付き合いください。




