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政略結婚先の帳簿を整えていたら、冷酷な辺境伯が手放してくれなくなりました  作者: ヲワ・おわり


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第三十話 なぜ気づいたのか

正式な訊問が終わって三日が経った。ゲルハルトは別室に移されており、城内はどこか静かな緊張を保ったまま、表面だけは普段と変わらない日常を続けていた。廊下で使用人たちがすれ違うとき、どこか目を伏せがちになった。誰もが何かを感じているのだろう。長年城にいた人物の失墜は、水面下でじわじわと広がる動揺をもたらすものだ。


 ヴィクトールに呼ばれたのは、午後の遅い時間だった。


 書斎に入ると、彼は窓辺の椅子に座り、手に書類を持ってはいるが、どこか遠くを見るような目をしていた。窓の外には北の稜線が広がり、山頂に近い部分にはまだ白い雪が残っていた。アリシアが入ったことで視線を戻し、簡単に向かいの椅子を示した。書斎の中は静かで、炉の薪が低くはぜる音だけが続いていた。


「一つ、聞きたいことがある」


 アリシアは腰を下ろした。


「最初に気づいたとき——同じものを見た人間が、他にも必ずいたはずだ。なぜあなたには見えた」


 単刀直入な問いだった。咎める響きはなく、純粋な問いとして投げられている。アリシアは少し考えた。答えそのものはわかっていたが、言葉にするのはそれほど簡単ではなかった。何を当たり前のこととして話すのか、相手がどこまでを知っているのかを見極めながら説明する必要があった。


「帳簿は、数字の羅列ではないと思っています」


 ヴィクトールの視線が静かに定まった。


「帳簿というのは、人が下した判断の記録です。支払いが起きるたびに、誰かが何かを決めている。取引先を選ぶこと、金額を決めること、時期を選ぶこと——そうした決断のあとに、数字が残る。だから本来、自然な帳簿には揺らぎがあります。同じような取引でも、金額が少し違ったり、時期がずれたりする。人の判断には、そういう個差がある」


「揺らぎがなかった」


「はい。同じ金額が、同じ間隔で繰り返されていました。誤差がゼロに近かった。それが最初の違和感でした。人の判断でそうなることは、まずない。そうなっているとすれば、意図的に揃えているということになる。数字が整いすぎているとき、かえって不自然なのです」


 ヴィクトールは黙っていた。否定も肯定もせず、ただ聞いていた。こういう話を静かに受け取れる人だ、とアリシアは思った。反論を探すのではなく、理解しようとして聞いている。それは父の商会に出入りしていた商人たちと話すときに感じる、信頼できる聞き手の態度と似ていた。


「もう一つは、業者名の変わり方です。名前が変わるときには、理由があります。取引の継続か、価格交渉の結果か——どちらかの説明がつく形で変わるのが自然です。でもあの帳簿の業者名の変わり方は、そのどちらにも当てはまらなかった。金額は同じなのに名前だけが変わる。それは、見る目をかわすための書き換えでしか説明がつかない」


「……それをどう訓練した」


「訓練というほどのものでは」アリシアは少し迷ってから続けた。「父が商会を営んでいました。子どもの頃から傍で帳簿を見せてもらっていて、数字の読み方や、不審な兆候の見つけ方を自然に身につけました。特別なことではなく、父の仕事場の空気の中で覚えたことです」


 父のことを話しながら、アリシアはふとあの事務所の匂いを思い出した。古い紙と、インクと、木製の棚から染み出すような黴の気配。父の手は常に少しインクで汚れていて、帳簿を指でたどるときの仕草は今でも目に浮かぶ。あの数字の向こうに何があるかを見ることを、彼は一度も「勉強」として教えなかった。ただ隣に座って、一緒に考えていただけだった。


「お父上は、今も商会を」


「はい。元気にしております」


「そうか」


 短い返答だった。しかしそのあとの沈黙が、これまでの沈黙と少し違う気がした。ヴィクトールが自分を見ていた。ただ人物として見ているのではなく、何かを確かめるように、あるいは初めて全体の輪郭を摑もうとするように——アリシアは言葉にしにくい感覚を受けた。


 これまで彼の目に映っていたのは、新しい奥方という役割だったかもしれない。あるいはクラウディアの代わりに来た誰か、という枠だったかもしれない。しかし今この瞬間だけは、その枠の外から見られているような気がした。彼は今、アリシア個人を見ている。


 そう思ったとき、胸の奥がわずかに揺れた。嬉しいとも恥ずかしいともつかない感覚で、アリシアは視線を膝の上に落とした。


「これからも、稼働中の財務記録を定期的に確認してもらえるか」


「はい。お役に立てるなら」


「頼む」


 立ち上がって書斎を出ようとしたとき、ヴィクトールが短く付け加えた。


「先日の訊問の場で、あなたは証言を求められた以上のことをした。それはあなた自身の判断だった」


 アリシアは振り返る前に、一瞬だけ目を伏せた。その言葉の意味を、ゆっくりと受け取った。


「はい」とだけ答えて、部屋を出た。


 その日の夕刻、書斎の前の廊下でヴォルフが声をかけてきた。


「奥方様、一つご報告が。ゲルハルトの訊問で、名前が出ました。ライヒェンバッハ侯爵家です。最初に接触してきた商人の背後に、その名があると」


 アリシアは足を止めた。


「ゲルハルトの上に、まだ誰かいる」


「そういうことになります」


 夕暮れの廊下に、短い沈黙が落ちた。問題の輪郭が、また一回り大きく広がっていく。ようやく終わったと思っていた何かが、別の形で始まっていく気配がした。

続きも順次更新されます。よろしければ次話もお付き合いください。

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