第29話 習慣で気づいた
聴取から数日が経った頃、ヴィクトールの使者がアリシアのもとに来た。
「領主様が執務室にお越しを、と」
いつものことのように聞こえたが、それが書類の提出でも報告のためでもないと、アリシアはなんとなく感じた。言葉の選び方が少し違った。「ご用件があります」ではなく、「お越しを」という言い方が、命令ではなく問いかけに近かった。
執務室の扉を開けると、ヴィクトールは机から離れ、窓の前に立っていた。外の庭に目をやっていたが、アリシアが入ると振り向いた。机の上に書類はなかった。暖炉には穏やかな火が燃えており、部屋は静かに暖かかった。これは仕事の話ではない、とその瞬間に分かった。
「座ってください」
アリシアは椅子に腰を下ろした。ヴィクトールは机の角に軽くもたれるように立ち、少し間を置いてから口を開いた。
「最初から、どうやって気づいたのか」
問いは短かったが、アリシアには意味がすぐに分かった。何を見つけたか、ではなく、どうやって、という問い。見つけた中身ではなく、見つけるに至った自分の動き方への問いかけだった。聴取の場でも、書類を読む場でも、一度も受けたことのない種類の問いだった。
「年度ごとに整理をしていました。棚を順に並べ直しながら、同じ取引先の名前が同じ金額で三ヶ月続けて出てきたのが最初の引っかかりです。繰り返しの支払い自体は珍しくありません。ただ、商会の名前が毎月わずかに違っていた。ヴェルナー商会、ヴェルナー商店、ヴェルナー物産。それが同じ取引先なのか別の取引先なのか、確かめようとして、受領書を探しました。見つからないものがあった」
ヴィクトールは静かに聞いていた。
「習慣で気づいたのですか」
「そうです。父の商会で帳簿を付けていた頃から、繰り返しの数字には注意するように言われていました。定期支払いは合理的ですが、同じ金額が同じ時期に何度も出てくるときは、必ず確認しろと。自然と、数字を流して読まない癖がついていたのだと思います」
「父の会社の仕事を、ずっとしていたのですか」
問いではなく確認の言葉だった。
「子どもの頃からです。初めは見様見真似で数字を写していただけですが、十二の頃には帳簿の読み方を教えてもらいました。繁忙期には一日中数字に向かうこともありました」
アリシアは話しながら、父の会社の小さな帳場を思い出した。木の机と、革張りの台帳と、窓から差し込む午後の光。数字を間違えるたびに父が来て、黙って消して、書き直してくれた。怒ることはなかった。ただ、「もう一度」とだけ言った。その「もう一度」の積み重ねが今の自分を作ったのだと、このところよく思う。
「父親が教えたのですね」
「はい。几帳面な人でした。数字は嘘をつかない、と何度も言っていました。嘘をつくのはいつも人間の方だ、と」
ヴィクトールは短く目を伏せた。その表情に、何かが過ぎったように見えた。何かを聞いたとき、人は別の何かを思い出すことがある。アリシアにはそれが何かは分からなかった。ただ、少しの間、彼の視線が遠くなったように感じた。
「お父上は今も」
「元気にしています。領地はこちらからずいぶん遠いですが、手紙は届きます」
「それは良かった」
ヴィクトールの言い方は短かったが、機械的ではなかった。それが社交上の言葉ではなく、本当にそう思っている声音だった。わずかな間があり、やがて来月からは現在使われている帳簿の確認も頼みたい、という実務的な話が続いた。アリシアは頷いた。「喜んでお引き受けします」と言ったとき、言葉が自然に出ていた。
部屋を出て廊下を歩きながら、アリシアは先ほどの問いを心の中で繰り返した。
どうやって気づいたのか。
何を見つけたか、ではなく。どうして、という問いだった。数字の中身ではなく、数字を見てきた自分への問いだった。ヴィクトールは書類の内容をすでに知っていた。聴取の場で、照合表を自分の目で確認していた。それでも今日、あらためて訊いた。
なぜだろうとアリシアは考えた。
どうやって、と訊くことは、仕事の向こうにいる人間を見ようとすることだ。どんな経験が、どんな習慣が、この目を作ったのか。それを知ろうとすることだ。
領地の財務を任せるためなら、そこまで知る必要はない。記録が正確であればいい。それだけで十分なはずだった。
廊下の窓から空が見えた。薄い雲の間から、秋の光が差していた。庭の梢が風にわずかに揺れていた。
あの問いが、思っていたより深いところまで届いていたことに、アリシアはしばらく歩いてから気づいた。それがどういう意味を持つのかは、まだ分からなかった。ただ、胸の中にある小さな温かさが、それを大切に受け取っていた。
この城に来てから、自分という人間を見られることはほとんどなかった。新しい奥方として見られることはあった。前の奥方と比べられることもあった。帳簿を読む者として見られることも増えた。しかしヴィクトールが今日訊いたのは、そのどれでもなかった。
どうやって気づいたのか、という問いは、アリシアが今の自分になるまでの道を訊いていた。
父の帳場で過ごした時間。繁忙期の夜遅くまで数字と向き合った日々。間違えるたびに書き直した経験。そのすべてが積み重なって、今ここにある自分がいる。それを、ヴィクトールは知りたがっていた。
アリシアは自分の部屋の扉の前で立ち止まった。
「クラウディアではなく私がここに来たのは、そのためだったのかもしれない」
声に出しかけて、止めた。その言葉の続きを、今はまだ考えたくなかった。姉と自分を比べる必要はない。ただ、自分がここにいる理由が、数字を読む力だけではないかもしれない、という考えが、かすかに頭をかすめた。
扉を開けながら、もう一度ヴィクトールの問いを思い返した。
どうやって気づいたのか。
その問いは、終わった話の整理ではなかった。これからのための問いだったかもしれない。アリシアはそれを、しっかりと受け取っておくことにした。
続きも順次更新されます。よろしければ次話もお付き合いください。




