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政略結婚先の帳簿を整えていたら、冷酷な辺境伯が手放してくれなくなりました  作者: ヲワ・おわり


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第27話 事後の静けさ

翌朝、城は異様に静かだった。


 廊下を歩く使用人たちは声を落とし、互いに目配せをしながら足早に通り過ぎた。食堂でも、いつもなら朝の仕事前に少し言葉を交わす者たちが、それぞれ黙って作業を済ませた。ゲルハルトが拘束されたことは、すでに全員が知っているのだろう。昨夜、城内に騎士が動いたことは隠しようがない。二十二年間この城に仕えた執事の失墜は、城の空気そのものを変えていた。


 アリシアは朝食を軽く済ませ、文書庫へ向かった。


 扉は施錠されていたが、ヴィクトールの使者が朝に鍵を届けてくれていた。ゲルハルトが昨夜持ち出そうとした台帳は、すでに騎士に確保されている。残りの書類は手つかずのまま保管されているはずだった。


 扉を開けると、ひんやりとした空気が顔に当たった。棚に並んだ台帳は、アリシアが整理した順番のまま動いていなかった。ゲルハルトが取り出そうとした数冊だけが、その空白を残していた。棚の上の薄い埃には、昨夜の手の跡が残っている。


 整然とした棚を眺めながら、アリシアは小さく息をついた。間に合った、という感覚があった。数字の異常に気づき、ヴィクトールに報告し、夜中の廊下で現場を目撃するまで。自分がしてきたことが、ここで一区切りを迎えた。


 それでも、終わったわけではない。帳簿の数字を調べることと、その背後を明らかにすることは、別の話だ。ゲルハルトを捕らえても、ヴェルナー商業連合との繋がりがある以上、問題の根は外側に伸びている。


 棚を前にしてしばらく立っていると、扉の外から控えめな足音が聞こえた。


「奥方様、領主様がお呼びです。調査の記録を正式にご提出いただきたいとのことです」


 ヴィクトールの従者だった。若い男で、丁寧に礼をした。アリシアは自分がまとめておいた書類の束を手に取った。整理に三週間かけた記録だ。数字の照合、支払いの追跡、取引先の分類、時系列の一覧。すべてが日付順に綴られ、引照表として使えるよう索引も付けてある。


 執務室に入ると、ヴィクトールは机の前に座っていた。昨夜の出来事の疲れは顔に出ていなかった。書類を机に置くと、彼は手に取り、すぐに読み始めた。


 アリシアは黙って待った。執務室の窓からは曇り空が見えた。雨になるかもしれない。低い雲が城壁の上にかかっていた。暖炉の火が静かに揺れ、時折薪がはじける音がした。


 ページをめくる音だけが続いた。ヴィクトールは急がなかった。一枚一枚、丁寧に目を通した。


 アリシアは自分の仕事が誰かに読まれる、という状況に慣れていなかった。父の会社では帳簿を付けることは当然のことで、誰かがそれを読み込む場面は少なかった。正確であることが求められ、それで十分だった。父も「お前の帳簿は分かりやすい」と一度だけ言ったが、それ以上の感想を聞いた覚えはない。


 しかしここでは違う。この書類はヴィクトールが読む。彼が判断する。アリシアの記録が、一人の人間の処遇に関わる。その重さを、待ちながら改めて感じた。自分が持ち込んだ数字が、この場で法的な意味を持つ。


 長い沈黙の後、ヴィクトールが顔を上げた。


「丁寧な仕事だ」


 褒め言葉は短かった。だが、それだけ言えば十分という調子だった。飾りのない言葉が、かえって確かな評価に聞こえた。


「あるものを記録しただけです」とアリシアは答えた。


 ヴィクトールはわずかに首を傾けた。目がアリシアの方を向いた。これまでとは少し違う向き方だった。話の内容を処理する目ではなく、目の前にいる人間を見ている、という視線だった。


「それだけではない。あなたはここへ持ってくることを選んだ」


 アリシアは何も言わなかった。当たり前のことだと思っていた。しかし彼がそれを言葉にするのは、当たり前ではないと彼が知っているからかもしれない。記録を作っても、それを外に持ち出す者もいる。握りつぶす者もいる。アリシアがここへ来たのは、そうしなかったということだ。


 彼はその選択を、見ていた。


「ゲルハルトの正式な聴取を行う。あなたの証言が必要になる」


 静かな告知だったが、アリシアには次の段階が始まることを意味していた。記録を作ることと、それを証言として語ることは、また別の話だ。しかしアリシアは迷わず頷いた。


「分かりました」


 執務室を出ながら、アリシアはヴィクトールの言葉を心の中で繰り返した。「あなたはここへ持ってくることを選んだ」。その言葉が、ただの事実の確認以上の何かに聞こえたのはなぜだろうと、廊下を歩きながら考えた。


 城の中はまだ静かだった。使用人たちは仕事をしていたが、声が少なかった。誰かが去ることが、こんなにも空気を変えるものかとアリシアは思った。いなくなったのはまだゲルハルト一人だ。しかし彼の存在はこの城のあちこちに染み込んでいた。食事の采配も、来客の対応も、騎士団の補給も、すべて彼が取り仕切ってきた。その人間が突然消えることの空白を、城全体が感じ取っていた。


 次の執事が必要になるだろう。財務の管理体制も、見直さなければならない。ヴィクトールはきっとそこまで考えている。


 アリシアは自室に戻らず、廊下の窓のそばに少し立ち止まった。外の空は低い雲に覆われ、庭木がわずかに揺れていた。風が出てきた。


 証言が必要になる、とヴィクトールは言った。これまで自分の作業は記録の整理だった。見つけたことを書き留め、数字を並べることだった。しかし証言は、自分が語ることだ。自分の言葉で、何を見たか、何を発見したかを述べる。それはもう少し、違う重さを持つ。


 緊張はなかった。ただ、気持ちの切り替えが必要だと感じた。


 証言の場で、ゲルハルトと向き合うことになるかもしれない。あの沈黙の顔と、また会うことになる。それを、アリシアはどこかで覚悟していた。

続きも順次更新されます。よろしければ次話もお付き合いください。

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