第26話 現場を押さえる
その日の午後、ヴィクトールはアリシアを執務室に呼んだ。
「外部監査が明後日行われる予定だと、城内に触れを出す」
短い一文だったが、アリシアにはその意味がすぐに分かった。これは罠だ。本物の監査ではない。外部の目が入ると知れば、ゲルハルトは何かを動かそうとするはずだった。帳簿を、書類を、あるいはまずい記録を。証拠を隠す機会を自ら与えることで、その動きそのものを捕捉する。商人の世界でも、似た手を使うことがある。買い手に見せたくないものを隠そうとする仕草を見て、隠しているものの存在を証明する、というやり方だ。
「今夜か明晩に動くと思います」とアリシアは言った。
「おそらく」
「私はどうすれば」
「部屋にいてください。今夜は動かないように」
短い言葉だったが、命令ではなく、懸念に近い響きがあった。アリシアは素直に頷いた。文書庫には自分の記録も残っている。だがそれは複写を作って別の場所にも保管してある。万が一何かが動かされても、証拠が消えることはない。
その夜、アリシアは自室の灯りを落とし、羽毛布団の中に入った。しかし眠れなかった。城の中がいつもより静かすぎた。いつもなら夜中に聞こえる護衛の巡回の足音もない。静けさの下に、何かが張り詰めているような感覚があった。布団の中で目を閉じ、息を整えようとしたが、耳が無意識に廊下の音を探していた。
時刻の見当はつかなかった。夜半を過ぎたあたりだろうか。廊下のどこかで、足音が重なる音がした。複数の、急ぎ足。それから低い声。言葉は聞き取れなかったが、緊迫した調子は分かった。
アリシアは布団から出た。ヴィクトールには部屋にいるよう言われていた。だが足は扉の方へ向いていた。止める理由を自分の中で探したが、見つからなかった。
廊下に出ると、文書庫のある方向へ松明の光が動いていた。アリシアは壁沿いに歩いた。音を立てないように、ゆっくりと。夜の廊下は冷えており、素足の裏に石の冷たさが伝わった。
文書庫の扉の前に、騎士が三人いた。その中心に、ゲルハルトがいた。
執事服を着たままだった。白い麻のシャツが乱れ、手には何冊かの台帳が抱えられていた。顔は蒼白だったが、それでもまだ冷静に見えた。いつもの、感情を表に出さない顔で。二十二年間この城に仕えてきた男の、崩れることを知らない表情で。
しかし騎士のひとりが台帳を取り上げたとき、その顔が微かに動いた。
「これは……整理をしていただけです。管理の一環で――」
「封印された保管庫の書類だ」
声は静かだったが、それはヴィクトールの声だった。
アリシアは廊下の角から動けなかった。暗がりの中で、ヴィクトールが前に出るのが見えた。灯りが彼の顔に当たり、その表情を浮かび上がらせた。怒りではなかった。怒りより冷たい、何かだった。長年の疑念が確かな形を取った瞬間の、静かな確認。
「あそこには触れる権限がない。それはあなた自身が知っているはずだ」
ゲルハルトは黙った。反論の言葉を探しているのか、諦めているのか、アリシアには分からなかった。ただその沈黙は、言い訳が通じないと本人が悟った沈黙に見えた。二十二年間積み上げてきたものが、この夜に終わる。その覚悟が、あの沈黙の中にあるように思えた。
「東の部屋へ」
ヴィクトールの命で、騎士たちがゲルハルトを連れて動き始めた。台帳はそのまま騎士の手の中にあった。アリシアは壁に背を押しつけた。
そのとき、ヴィクトールが振り向いた。
廊下の暗がりの中にいるアリシアの方へ、松明の光がわずかに届いた。彼の目がアリシアを捉えた。
驚いた様子はなかった。もしかすると、気配に気づいていたのかもしれない。ただ、しばらくの間、その目がアリシアを見ていた。ふたりの間の距離は十歩ほど。廊下の中央で松明が揺れ、光と影が交互にその顔を照らした。
アリシアはその目の中に何を読めばいいか、分からなかった。咎める色はなかった。かといって安堵でも、労いでもなかった。ただ、確認するような、静かな視線だった。来ていたのか、とでも言うような。いや、来るとは思っていた、とでも言うような。
足音が遠ざかり、廊下はまた暗くなった。
アリシアは自室へ戻りながら、あの視線のことを考えた。長い廊下の暗がりの中で、彼の目は何を言おうとしていたのだろうか。叱責でも称賛でもない、あの表情の意味を、うまく言葉にできなかった。
自室の扉を閉め、アリシアは冷えた窓の傍に立った。外は深い闇で、城壁の向こうに星がわずかに見えた。
ゲルハルトの顔が頭に浮かんだ。台帳を取り上げられたとき、あの表情に走った微かな亀裂。二十二年間、表情ひとつ変えなかった男が、その瞬間だけ崩れた。長くやり遂げてきたことが終わる瞬間には、人はどんな顔をするのだろうとアリシアは思った。
父の商会で働いていたとき、一度だけ横領を働いた従業員を見たことがある。発覚した日、その人は泣いた。責任を問われたからではなく、自分がしてきたことが終わったことへの、奇妙な安堵のように見えた。ゲルハルトは泣かなかった。しかし沈黙の中に、似たものを感じた。
それとも、あれは諦めではなく、別の何かだったのだろうか。
ゲルハルトの背後には、ヴェルナー商業連合がいる。彼ひとりが捕まっても、組織の本体には傷がつかない。むしろゲルハルトが終わることで、連合にとって都合の悪い証人がひとり消えることになるかもしれない。
東の部屋に閉じ込められたゲルハルトが、今夜どんな思いでいるかを想像すると、アリシアの中に複雑な感情が生まれた。同情とは言えない。しかし、無関心でもなかった。
問題の本当の中心は、まだ外にいる。
続きも順次更新されます。よろしければ次話もお付き合いください。




