第25話 外からの圧力
朝の光がまだ薄い時刻、ヴォルフが書類を手に執務室の扉を叩いた。
「奥方様、少しよろしいですか」
アリシアは資料の整理を中断した。ヴォルフの声には、いつもの快活さが影を潜めていた。嬉しい報告ではない、とその声だけで察せられた。招くように手を示すと、彼は室内に入り扉を静かに閉めた。
「ゲルハルトが外部の商人たちと会合を重ねていることが分かりました。場所は東門近くの宿屋です。先月だけで三度。相手はヴェルナー商業連合と名乗っています」
アリシアは手を止めた。ヴェルナー。その名前には聞き覚えがあった。帳簿の中に繰り返し現れた取引先だ。ヴェルナー商会、ヴェルナー商店、ヴェルナー物産――似た名前のついた複数の店舗が、微妙に違う形で領地の帳簿に記載されていた。同一なのか別々なのか、受領書の類が見つからなかったために確認できていなかったものだ。
「その連合について、もう調べましたか」
「はい。実体のある組織です。ただ――」ヴォルフは少し言葉を選ぶように間を置いた。「表向きの事業と、実際の資金の流れが一致していない。いくつかの店舗は、別の利権を持つ者たちの隠れ蓑になっている可能性があります。完全な偽の存在ではないが、完全に正直な存在でもない」
アリシアの脳裏で、三年分の数字が動いた。同じ金額、繰り返す支払い、消えた領収書。それらが一人の人間の欲によるものではなく、外側の組織へ向かって繋がっているとすれば。横領ではなく、もっと大きな何かの一部だとすれば。
「これはゲルハルト一人による横領ではありません」
声にした瞬間、自分が落ち着いていることに気づいた。怖いとは思わなかった。ただ、問題の輪郭が大きく広がったことを、商人の娘として育った自分の感覚が冷静に測っているだけだった。父の会社でも、似た構造の不正を一度だけ目にしたことがある。外から資金を誘導し、内側に協力者を置く。そのとき父は、「これは氷山だ」と言った。見えている部分は、沈んでいる部分のほんの一片にすぎない、と。
「私もそう判断しています」とヴォルフは言った。硬い表情だった。「領主様にはすでに報告する予定でしたが、奥方様にもお伝えしておくべきかと思い、先にお知らせに参りました」
「ありがとうございます。私からも直接お伝えします」
ヴォルフが退室した後、アリシアはすぐに自分の記録書類をまとめてヴィクトールの執務室へ向かった。廊下はまだひんやりと冷たく、足音がよく響いた。窓の外では白い朝霧が低く漂っていた。
ヴィクトールは机の前にいた。アリシアの訪問を意外には思わなかったようで、静かに顔を上げた。その目には警戒でも驚きでもなく、ただ静かな準備のようなものがあった。
「ヴォルフから聞く前に参りました。ヴェルナー商業連合のことです」
「知っています」
「ゲルハルトが単独で動いているのではないとすれば、帳簿の改ざんには外部からの指示が入っていた可能性があります。私が確認できたのは数字の異常だけです。しかしそれが組織的なものであれば、調査の範囲も、対処の方法も、大きく変わってきます」
ヴィクトールはしばらく黙っていた。窓から差し込む朝の光が、彼の横顔に薄く当たっていた。整った顔立ちに、疲労とも思索ともつかない影が浮かんでいた。やがて、静かに口を開いた。
「三年前、数字に違和感を覚えた。それから私は別に記録を付けていた」
アリシアは息を呑んだ。
「もうお疑いだったのですか」
「数字を疑っていた。だが、証拠がなかった」
「では、文書庫の記録を整理させたのは――」
ヴィクトールは答えなかった。否定もしなかった。ただ、机の上の書類に視線を落とした。その沈黙が、すでに答えだった。
アリシアは胸の中で何かが静かに動くのを感じた。三年間、彼は一人でそれを抱えていたのだ。証拠のない疑念を、数字の齟齬を、外には見せずに積み上げながら。表には何も変えず、ゲルハルトを側に置き続けながら。
なぜもっと早く動かなかったのですか。
問いが喉まで来た。だがアリシアはそれを飲み込んだ。
理由があったはずだ。彼が三年間、証拠を持ちながら――あるいは証拠を求めながら――動かなかったのには。それを問い詰める権利が今の自分にあるのかどうか、まだ分からなかった。そして問い詰めたところで、何かが変わるわけでもなかった。
「ご報告は以上です」とアリシアは言った。
ヴィクトールはわずかに顎を引いた。それだけだったが、アリシアにはそれで十分だった。
部屋を出ながら、飲み込んだ問いがまだ胸の底に残っているのを感じた。
廊下を歩きながら、アリシアは今告げられたことを整理しようとした。三年前から記録を付けていた、という言葉の意味を。それはつまり、アリシアが文書庫に入る前から、ヴィクトールは何かを知っていたということだ。アリシアを文書庫の整理に向かわせたのも、偶然ではなかったかもしれない。
では、自分はここへ連れてこられたのか。それとも、たまたまここにいたのか。
考え始めると、どこまでが意図でどこからが偶然なのか、判断が難しくなる。商人の家で育った習性として、アリシアは因果を結びつけようとする。しかし今は、結論を急ぐ必要はない。数字を調べるときと同じだ。持っている事実を並べ、足りないものを見極め、そこから先を問う。今は材料が足りない。
それでもひとつだけ確かなことがあった。ヴィクトールはアリシアの報告を、はじめから信じていた。証拠を見て初めて動いたのではなく、アリシアが何かを持ってくることを、どこかで予測していたように見えた。
なぜもっと早く動かなかったのですか。
問いを飲み込んだ理由を、アリシアはまだ自分でもうまく説明できなかった。怖かったわけではない。答えを知りたくなかったわけでもない。ただ、今その問いをぶつけることが、何かを壊してしまうような気がしたのだ。何を、とはっきりは言えないのだが。
答えを知ることは、この問題が終わった後でも遅くはない。
続きも順次更新されます。よろしければ次話もお付き合いください。




