第二十三話 共同作業
翌朝、書斎の前に若い男が立っていた。
アリシアが廊下を歩いてきたとき、その男はまっすぐこちらを向いて頭を下げた。年は二十歳前後だろうか。細い体つきで、手には筆記用具の入った革袋を持っていた。
「クラウスと申します。領主様より、奥様のお手伝いをするよう命じられました」
アリシアは一瞬、言葉に詰まった。
ヴィクトールがこちらに人を寄こした。昨日の書斎での話の後、指示を出したのだろう。あの短い会話の中で、すでに次の手を考えていたのだ。ありがとうございます、という言葉が喉まで来たが、それは相手に向けるものではなかった。アリシアは気持ちを収めて、クラウスに向き直った。
「よろしくお願いします。書庫の記録をさらに詳しく調べたいのです。一人では手が足りなかったので、助かります」
クラウスは余計なことを言わなかった。ただ、はい、と短く答えて後ろに続いた。
書庫に入って、アリシアはまず三年分の照合表をクラウスに見せた。仕上げの費用に関するパターンについて、要点を簡潔に説明する。クラウスは黙って聞き、要所でだけ確認の言葉を挟んだ。話の呑み込みが早い。こちらの意図を先読みするように動く。これは意図的に選ばれた人物だ、とアリシアは思った。
「今日は維持費の記録も確認したいのです」とアリシアは続けた。「精錬費だけではなく、別の費目にも同じような傾向がないか確かめたくて」
「かしこまりました。維持費の帳簿は、あちらの棚の下段にあるはずです」
クラウスが迷わず場所を示した。この書庫の構造に慣れている。アリシアにとっては好都合だった。
二人で維持費の帳簿を広げ、年ごとに照合を始めた。クラウスが帳簿の数字を読み上げ、アリシアが別紙に転記して整理する。最初の一時間は黙々と作業が続いた。窓の外で風が吹くたびに、建物が低くうなるような音を立てた。日差しは書庫の奥まで届かず、燭台の炎が揺れるたびに影が動く。こういう作業は嫌いではなかった。父の事務所でも、よくこうして帳簿と向き合っていた。
最初に気づいたのはアリシアだった。
「待ってください」
手を止めた。目の前の数字を見直す。また、見直す。
「この業者、『テッセン工務』。三ヶ月続けて、まったく同じ金額が記録されています」
「六百四十銀貨ですね」
「前後の月は?」
クラウスが別の帳簿を繰った。「前後にはありません。この三ヶ月だけです」
「もう一年前の帳簿を出してもらえますか」
クラウスが動いた。数分後、アリシアの前にさらに数冊の束が積まれた。ページを繰る。業者名を目で追う。あった。
「『テッセン建材』。同じ金額で、別の年に出ています。さらにもう一年前を見ると、また名前が変わっています」
声は静かに出た。しかし胸の中に、じわりと冷たいものが広がっていくのを感じた。
精錬費だけではなかった。維持費にも、同じ仕組みが仕込まれていた。業者名を変え、費目の分類を少しずつずらしながら、一定の金額が繰り返し流れていた。仕掛けは一箇所ではなく、帳簿のあちこちに静かに潜んでいた。一つの費目だけ見ていては気づかない。複数の費目を横断して初めて、全体の輪郭が浮かび上がってくる。
午後の半ば、アリシアは整理した紙をひとまとめにした。費目ごとに表を分け、業者名の変遷と金額の合計を並べる。クラウスが端を押さえながら、計算の確認を手伝った。
「精錬費だけで直近三年間の推定額が約九万銀貨。維持費に同じパターンを当てはめると、さらに六万から八万の上乗せになります」
クラウスは静かに答えた。「合計で十五万から十七万銀貨、ということですね」
「少なくとも直近三年でそれだけです」
アリシアは整理した報告書を見下ろした。表を作り直した紙が、数枚に渡って並んでいる。数字はただの数字だ。しかしこれは誰かが意図的に作った流れだ。偶然でも、慣習でも、誤記でもない。これだけの数字の裏には、長い時間と、それを隠し通すための労力がある。
もしこのパターンが二十年以上続いていたとすれば、総額はけた違いになる。
では、なぜ今まで誰も気づかなかったのか。
アリシアは筆を置いて、しばらく考えた。
父の商会で帳簿を見始めたのは十歳のころだった。父は「数字は嘘をつかないが、嘘もつける」と言っていた。数字そのものは正確に記録されていても、その並べ方や分類の仕方で、見る者の目を欺くことができる。アリシアがそれを理解したのは十四歳のとき、取引先の帳簿に不審な点を見つけて父に告げたときだ。父は少し驚いた顔をして、よく気づいたと言った。
でも、ここは違う。
父の商会の帳簿は、アリシアが定期的に見ていた。変化があれば分かった。しかしアルバーン城の帳簿は、何十年も誰かが一人で管理していたのだ。
クラウスが静かに言った。「報告書のまとめは、完成ですか」
「ええ。今日の分は一通りできました」アリシアは紙を揃えながら答えた。「後は今夜、もう一度確認してから、明日領主様にお渡しします」
「承知しました」
クラウスは何も余分なことを言わなかった。ただ、静かに荷物を片付け始めた。アリシアは報告書の束を手に取り、一枚一枚の数字をもう一度目で確かめた。表の端に小さく書いた自分の計算式が、静かにそこにある。
この規模が、二十二年もの間、なぜ誰にも気づかれなかったのか。
続きも順次更新されます。よろしければ次話もお付き合いください。




