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政略結婚先の帳簿を整えていたら、冷酷な辺境伯が手放してくれなくなりました  作者: ヲワ・おわり


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第二十二話 書斎の問い

書斎の扉を叩くと、すぐに「入れ」という声がした。


 部屋の中は、午前の光が窓から斜めに差し込んでいた。石の床に細長い白い光の帯が延びていた。ヴィクトールは机の前に座っていた。机の上には書類が広げられていたが、アリシアが入ると視線を上げた。初めて会ったときと変わらない、静かで重い目だった。しかし以前とは何かが少し違う。「測っている」という感じが、今日はそれほどない。それが何かはすぐには言葉にならなかった。


「財務記録を。確認したパターンは何年前まで遡るか」


 挨拶はなかった。しかしそれは冷淡ではなく、要点から入る話し方だとアリシアには分かった。この人はいつもそうだ。無駄を省く。そこには意図がある。先に答えを引き出してから、必要なら経緯を聞く。それが彼の話し方だ。アリシアは簡潔に答えることが、この場では礼意だと判断した。


「確認できたのは十年前まです。それ以前の記録が一部、現在は閲覧が制限されている棚にございます」


 ヴィクトールの目が少し動いた。


「ゲルハルトが棚を制限したのか」


「最初にご報告した後、使用人から制限の通達があったと聞いております」


 アリシアはそれだけ言った。誰が命じたかは推測できる。しかし確認できていないことは言わない。数字と事実だけを報告する。父の言葉は今も有効だ。推測を混ぜると、確かな事実の価値が下がる。それは商家で学んだことだった。取引の場では、証明できないことを証明できるように語るより、証明できることだけを丁寧に積み上げる方が、最終的に信頼を得る。


 ヴィクトールはしばらく黙っていた。机の上の書類から目を上げて、アリシアを見ていた。その視線には以前のような「測っている」感じは薄かった。代わりに、考えながら聴いている、という質の静けさがあった。


 書斎の中は静かだった。窓の外で風が通り、カーテンの端が少し揺れた。机の上の書類が小さく波打った。ヴィクトールは書類に視線を戻し、何かを確かめるような間があった。それから顔を上げて言った。


「許可された範囲で調査を続けろ。報告は直接私にしろ」


「はい」


 アリシアは椅子から立ち、礼をして扉に向かった。一歩踏み出したとき、背後からヴィクトールの声がした。


「……誰かに話したか」


 アリシアは扉の前で立ち止まり、振り返った。


「ヴォルフ副騎士団長が今回の面談を取り次いでくださいました。ただし、内容については何も話しておりません。先日、書庫の廊下で足音が止まり外から鍵を試みる音がありましたため、廊下の見張りを頼みました。危険の防止のためとだけ伝え、調査の内容は話しておりません」


 ヴィクトールはうなずいた。短く、しかし確かなうなずきだった。少し間があった。


「それは正しい判断だ」


 それだけだった。アリシアは再び礼をして書斎を出た。


 廊下に出た瞬間、石の壁の冷たさが感じられた。昼間の廊下は少し明るく、窓の外から青白い空が見えた。アリシアは足を止めずに歩いた。しかし頭の中では、今の言葉が繰り返されていた。


 「それは正しい判断だ」。


 この城に来てから何度か、ヴィクトールと言葉を交わしてきた。庭でパターンを報告したとき。書斎で照合表を見せたとき。彼はいつも短く、しかし必要なことは言った。「調べる」とも「持ってきなさい」とも言った。それは言葉の数は少ないが、無視ではなかった。受け取っていた。


 しかし今日の言葉は少し違った。


 「それは正しい判断だ」は、事実の確認ではない。評価だ。アリシアが自分の頭で考えて動いたことへの応答だ。命令に従ったのではなく、自分で判断したことへの言葉だった。この城に来てから初めての、そういう種類の言葉だった。アリシアは廊下を歩きながら、その言葉の重さをひとつひとつ確かめた。


 階段を上りながら、アリシアは自分の中に小さな変化を感じた。これまで書庫の作業を続けてきたのは、義務だった。帳簿の不正を見つけた以上、それを領主に伝えることは、この城の妻としての職責だ。商家で育ったアリシアには、そういう理屈が自然に働く。数字の誤りを放置することは、誰にとっても損失だ。だから動いた。最初はそれだけだった。


 ゲルハルトの警告が三度来ても、帳簿が動かされても、廊下で足音が止まっても、アリシアが動き続けたのは、義務と感じていたからだ。しかしそれだけではなかったのかもしれない、と今は思った。途中からは、「やめるのは違う」という感覚があった。数字が途中になっている状態に、自分が耐えられなかった。帳簿の持つ意味を最後まで読み切りたかった。それは職業人の本能に近い何かだった。


 しかし今、自室の扉の前に立ちながら、アリシアは別の感覚があることに気づいた。続けたい、という気持ちだ。義務の話でも本能の話でもなく、もっと個人的な何かとして。


 ヴィクトールがアリシアの判断を正しいと言った。たった一言だった。しかしその一言が、義務だったはずの作業を、何か別のものに変えていた。完全には言葉にならない。しかし何かが変わったことは確かだった。


 この城に来てから初めて、自分が「ここにいていい」と感じた。


 アリシアは部屋の鍵を回して扉を開けた。まだやることがある。次の報告書をまとめなければならない。しかしそれを考えるとき、今日は少し気持ちが違っていた。


 部屋の中に入り、扉を閉めた。しばらくその場に立ったまま動かなかった。それから机の上に覚書を広げた。「許可された範囲で調査を続けること」「報告はヴィクトールに直接」「ヴォルフへの内容不開示は正しい判断と認められた」。書き終えてから、覚書を閉じた。


 窓の外を見ると、昼過ぎの光が庭の石畳を照らしていた。石の上に積もった薄い砂埃が、光を反射して白く見えた。静かな午後だ。この城で、今この瞬間、自分がここにいることには理由がある。それが以前より確かに感じられた。


 続けよう、とアリシアは思った。義務として続けるのではなく、やりたいから続ける。その違いは小さいようで、自分の中では大きかった。

続きも順次更新されます。よろしければ次話もお付き合いください。

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