第二十一話 廊下の音
足音は止まっていた。
扉一枚を挟んで、廊下に誰かがいる。アリシアは息を止めた。書庫の内側は閂が下りていて、外からは開けられない。それは分かっている。しかしその事実が、今この瞬間の静けさをかえって重くした。扉に何かが起きているわけではない。音もない。ただ、人が止まっている気配がある。廊下の松明の光が、扉の下の隙間から差し込んでいた。その光に影が落ちていた。誰かの靴の先が見えているような気がした。見えてはいないのに、そこにある気がした。
次の瞬間、金属が触れる音がした。
鍵穴に何かが当たる音だ。外から鍵を差し込もうとしている。アリシアは一瞬で状況を判断した。自分の鍵は内側の鍵穴に差さったままだ。外から鍵を入れようとしても、内側に別の鍵がある状態では開かない。それは知っている。しかし自分がここにいることは、外の人間には分からないかもしれない。
アリシアは机から離れ、壁際に寄った。手の中のメモと写しを素早くまとめ、衣の内側に押し込んだ。ペンとインクは机の端に置いたままだ。持ち去る余裕はなかった。心臓が速く打ち始めているのが分かった。しかし手は動いていた。震えていたかもしれないが、動いていた。
もう一度、金属の音がした。今度は少し力が加わったような音だった。鍵穴の中で何かが引っかかっている音。外側の鍵が、内側に残った自分の鍵に当たって止まっている音だ。開かない。開けられない。
アリシアは動かなかった。壁を背にして、扉を見つめていた。手のひらが少し冷たくなっていた。石の壁に背中をつけたまま、ゆっくりと息をする。
沈黙が続いた。
長く感じたが、実際には十数秒だったかもしれない。金属の音が止まり、小さく衣擦れのような音がして、それから足音が再び始まった。今度は遠ざかっていく足音だ。ゆっくりと、しかし確実に、廊下を歩いていく。規則的な足音が角を曲がり、やがて聞こえなくなった。
アリシアはまだ動かなかった。
足音が消えてから、ゆっくりと息を吐いた。心臓がまだ速く打っている。いつからこんなに打っていたのか、自分でも分からなかった。深く呼吸をして、また深く吐いた。平静に戻るのに少し時間がかかった。壁から背中を離したのは、足音が消えてから一分以上後だった。
十分待った。
部屋の中に立ったまま、何も動かなかった。目を閉じて、廊下の音を聴き続けた。松明の燃える微かな音。遠くで誰かが水を汲む音。城が朝に目覚める音。しかし書庫の扉の外には、もう何の音もなかった。
十分後、閂を上げた。扉を少し開けて、左右を確認した。人影はなかった。足音が消えた方向の廊下は空だった。松明が静かに燃えていた。石の床に影一つない。何事もなかったように、城の朝は始まっていた。アリシアは扉を少し広く開けてから、もう一度廊下の両端を確かめた。いない。誰もいない。
廊下に出た瞬間、鼻先に何かが届いた。
ランプ油の匂いだった。朝の廊下の冷えた空気に、わずかにその匂いが残っていた。それと、もう一つ。革と蝋の混ざった匂い。靴磨きに使う蝋だ。使用人の靴には使わない種類の。管理職の者が使う靴に使われる。アリシアは幼い頃から父の商家でその匂いを覚えていた。番頭や帳簿係の男たちが出入りするときの匂いだ。
確認はできない。しかし匂いは残っていた。
アリシアは足音を立てないようにして廊下を歩き、自室に戻った。部屋の扉を閉めて鍵をかけ、やっと壁にもたれた。衣の内側に写しのメモが入っているのを確認した。ある。数字は手元にある。大丈夫だ。
部屋に戻ってから、アリシアはしばらく机の前に座ったまま動けなかった。写しのメモを机の上に広げて確認した。数字は乱れていない。インクが滲んでいる箇所もなかった。書庫の中で写したとき、手が少し震えていたのは自分でも分かっていたが、文字はきちんと読める状態だった。
次の朝、ヴォルフを探した。彼は厩舎の近くで馬具の点検をしていた。快活な笑顔でアリシアに気づき、「奥方様、どうされましたか」と近づいてきた。アリシアは声を低くした。
「昨日の朝、書庫に滞在中に、廊下で足音が止まりました。外から鍵を試みる音もありました。十分後に廊下を確認しましたが、人はいませんでした」
ヴォルフの顔から笑顔が消えた。一瞬も迷わずにうなずいた。
「分かりました。その廊下に夜間の見張りを配置します。今夜から」
「お願いします」
「奥方様。鍵が内側にあったのは正しい判断でした。これからも、一人では動かないでください」
ヴォルフの声は穏やかだったが、目が真剣だった。アリシアはこの城に来て初めて、誰かに「守られている」と感じた。ヴィクトールは遠く、マルタは厳しく、使用人たちは礼儀正しいが距離がある。しかしヴォルフは今この瞬間、アリシアを心配する人間として目の前にいた。それだけで、少し足元が固まる気がした。アリシアはうなずいた。
部屋に戻る途中、廊下の角で使用人が一人追いかけてきた。若い男で、少し息を切らしていた。何か急ぎの用がある時の歩き方だった。アリシアは立ち止まった。
「奥方様、領主様がお呼びです」と彼は言った。書斎で待っていると、それだけ伝えた。
アリシアは一瞬、胸の内側で何かが静まるのを感じた。昨日から続いていた緊張が、少し形を変えた。呼ばれた。それは動きがあるということだ。待つだけの時間が終わるということだ。衣の内側に手を当てて、写しのメモがあることを確認してから、アリシアは書斎への廊下を歩き始めた。
続きも順次更新されます。よろしければ次話もお付き合いください。




