第二十話 証拠の消えた棚
本作は全70話完結予定です。
毎日5話ずつ、07:10 / 12:10 / 18:10 / 20:10 / 22:10 に更新予定です。
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朝、書庫に向かったのは鐘が七つ鳴った直後だった。
廊下はまだ薄暗く、松明が壁に橙の光を投げかけていた。使用人たちの朝の動きが始まる前に着きたかった。石の床を歩く自分の足音だけが、冷えた廊下に響いた。夜の寒さがまだ壁に残っていて、素肌に触れると少しひんやりした。書庫の扉の前で、アリシアはいったん立ち止まり、指先で扉の表面を確かめた。鍵穴の周りに引っかき傷があれば、外から無理に開けようとした跡かもしれない。しかし表面は滑らかだった。鍵を出して、慎重に回した。扉が内側に開く。昨日と同じ、埃と古い紙の匂い、それにかすかなインクの匂いがした。
閂を下ろし、懐から手帳のメモを取り出した。先日、自分が整理した帳簿の配置を書き留めたものだ。棚番号、列番号、帳簿名。それを一つ一つ照合していく。
一列目、異常なし。二列目、いくつかの帳簿が少し斜めになっているが、自分が作業中に不注意に戻したものかもしれない。三列目——そこで手が止まった。
また動いている。
今度は一冊ではなく、二冊だ。
採掘量の原簿が三列目の右端から姿を消していた。自分のメモには「三列目、右から一番目、採掘量年次原簿・八年前〜十年前分」と書いてある。今そこにあるのは別の帳簿だった。採掘量原簿は五列目の奥に押し込まれていた。もう一冊、精製費用の補足記録帳も場所が変わっていた。こちらは四列目から二列目に移っていた。
アリシアは棚全体を静かに見渡した。
昨日の夜、ここに誰かが来た。
断言できる。自分が昨日の夕方に確認してから今朝までの間に、鍵を持つ者がここを訪れ、帳簿を動かした。前回は一冊だった。今回は二冊だ。しかも今回の対象は、採掘量の原簿だ。精製費用の記録と対照することで差額が計算できる、という意味で最も重要な資料だった。偶然の位置替えではない。どの帳簿を動かすべきかを、向こうは知っている。それはつまり、自分がどの帳簿に注目しているかを、向こうが理解しているということだ。
アリシアは素早く動いた。まず採掘量原簿を五列目から取り出し、ページを開いた。書き込みが加えられた形跡はないか。数字が上書きされた跡はないか。ページを一枚ずつ確認する。数字は変わっていないように見えた。ただ、何枚かのページの角に微かな折り目のようなものがあった。確認のために開いた跡かもしれない。あるいは以前からあったものかもしれない。断言はできない。しかし誰かが最近このページを読んだという感触は、紙の繊維の具合から確かにあった。
書き写す。今できることはそれだけだ。
アリシアは深く息を吸ってから、机の端に帳簿を広げた。手が少し冷たかった。朝の書庫は暖炉がなく、呼吸が白くなるほどではないが、指先の感覚がわずかに鈍い。しかし今は止まっていられない。帳簿がここにあるのは今だけかもしれない。次に来たときには、もうここにないかもしれない。そういう可能性を、今のアリシアは冷静に受け入れていた。驚きではなく、前提として。
羽根ペンとインクを取り出した。採掘量の年次推移、各鉱脈の月別産出量、年度ごとの合計値。数字を写しながら、頭の中で計算を始めた。
三年分の採掘量の合計と、対応する精製費用の記録を比較すると、費用が産出量に対して十五から二十パーセント過大になっている。それ自体は珍しいことではない。精製過程での目減りや不良分の処理費用を加算することはある。しかし問題はその「過大分」が毎年ほぼ一定で、しかも一定の業者名で処理されている点だ。自然な製造工程の誤差は年によって変動する。変動しない差額は、誤差ではない。それは意図的に設計された数字だ。
五年分、七年分、十年分と遡って同じ計算をすると、差額の構造は変わらなかった。業者名だけが少しずつ変わりながら、金額の比率は保たれていた。一年あたりの差額を概算すると、最低でも八百銀貨以上になる。十年で八千銀貨を超える。この城の年間運営費の何パーセントに相当するかは、もう少し別の資料が要るが、決して小さな金額ではない。
アリシアはペンを止めて、写し終えた紙を確認した。数字が正確に書かれているか、一度目で流した部分がないか。問題ない。紙を折りたたんで、衣の内側に入れた。部屋に持ち帰り、既存の照合表に加える。書庫の帳簿が全部動かされたり消えたりしても、自分の手元にある数字は変わらない。それだけは確かだった。
原簿をもとの場所——自分のメモに書かれた正しい位置——に戻した。補足記録帳も同様に戻した。誰かが再び確認に来たとき、帳簿が元の場所に戻っていることが分かるように。それはひとつの記録だ。動かしたことが分かっている、というメッセージでもあった。
作業を終えて、ペンを仕舞い、インクの蓋を閉めた。書庫の中は朝の光が窓の上方から差し込み始め、棚の端を薄く白く照らしていた。帳簿たちは元の位置に戻り、何事もなかったように並んでいる。しかしアリシアには分かっていた。この棚はすでに戦場になっている。見た目は静かだが、誰かがここで毎晩何かをしている。
立ち上がりながら、改めて棚全体を眺めた。書庫の帳簿が全部消えたとしても、手元のメモと照合表があれば、証拠の骨格は残る。数字は頭の中にも刻まれている。それだけは確かだった。
廊下から音が聞こえた。
足音だった。石の床を歩く、ゆっくりとした足音。書庫の扉のすぐ外を通り過ぎようとして——止まった。
続きも順次更新されます。よろしければ次話もお付き合いください。




