第十九話 マルタの話
本作は全70話完結予定です。
毎日5話ずつ、07:10 / 12:10 / 18:10 / 20:10 / 22:10 に更新予定です。
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夜が深くなってから、扉を叩く音がした。
アリシアは机の前で手帳を閉じた。今日のゲルハルトとのやり取りを書き終えたところだった。蝋燭の火がわずかに揺れ、石の壁に自分の影が大きく伸びた。外はもう完全に暗く、窓の隙間から冷気が忍び込んできていた。「どうぞ」と言うと、扉が開いて、盆を持ったマルタが入ってきた。
アリシアは少し驚いた。夜の茶は通常、若い侍女が運んでくる。給仕は侍女頭の仕事ではない。それがマルタ本人だった。厳しい顔つきはいつもと同じだったが、蒸気の上がる茶碗と薄切りのパンを丁寧に盆に乗せて、机の端に静かに置いた。置き方も静かだった。陶器が机に触れる音すら立てなかった。
「お顔が少しお疲れのようでしたので」
それだけ言って、マルタは下がろうとした。アリシアは思わず声をかけた。
「よろしければ、少し座っていただけますか」
マルタが一瞬止まった。侍女頭が客の部屋の椅子に腰を下ろすことはあまりない。立場として不自然だし、マルタ自身もそれを心得ているはずだ。しかしマルタはわずかに逡巡してから、椅子の縁に座った。二人の間に短い沈黙があった。蝋燭の火が静かに揺れていた。
アリシアは茶碗を両手で持ち、温かさを確かめながら、ふと思ったことをそのまま口にした。自分でも少し驚く衝動だった。しかし言葉は出ていた。
「エリーゼ様は、どのようなお方でしたか」
マルタの肩がわずかに固まった。
聞くべきではなかったかもしれない。そう思う間もなく、マルタはゆっくりと視線を膝の上に落とした。長い間があった。蝋燭の火が蝋を少し溶かし、細い白いしずくが蝋燭の側面をゆっくりと流れた。
「……明るいお方でした」
声が低かった。普段の事務的な声とは違う、少し温度のある声だった。こういう声でマルタが話すのを、アリシアはまだ聞いたことがなかった。
「お体が弱くて、冬になると必ずお床につかれていたのですが、それでもいつもお笑いになっていた。使用人の名前を全員覚えておいでで、台所のヨーゼフの息子が初めて歩けるようになったときも、ご自身のことのように喜ばれていた。城の者たちが何か失敗をしても、エリーゼ様はただの一度も声を荒げられなかった」
アリシアは何も言わなかった。茶碗の温かさだけを手のひらで感じていた。
「みんなに愛されていたのですね」
「はい」
マルタはそこで少し間を置いた。
「領主様も……」
また間があった。今度はずっと長かった。マルタは膝の上で手を重ねて、窓の外の暗闇を見るような目をしていた。その目は見えているものを見ていない。別の場所、別の時間を見ていた。
「領主様は今もご自分を責めておいでです。あの冬、砦の視察に出ておられたときに奥方様が倒れられた。急使を出したのですが、山道が雪で閉じていて、伝令が届くのに三日かかった。お戻りになったときには、もう間に合わなかった。あの方は……もっと早く医者を呼んでいれば、と。今もそう言われることがあります」
アリシアは静かに息を吸った。
三日。たった三日の遅れが何かを変えてしまった。それがヴィクトールの中で今も動き続けているのだということを、マルタの声の重さが伝えていた。誰かに言われたのではない。彼自身が心の中で繰り返している言葉だ。「あのとき戻っていれば」「あのとき別の判断をしていれば」——そういう言葉は、年月が経っても消えない。むしろ年月が経つほど、こびりついていく。アリシアは商家の娘として、父が母を亡くしたあとの十年を見てきた。だから少し分かった。
あの庭で初めて出会ったときのヴィクトールの、何も語らないあの静けさの理由が、今夜初めて少しだけ見えた気がした。言葉を持たないのではなく、言葉を閉じているのだ、と。
「失礼いたしました」
マルタは立ち上がった。普段の、事務的な素早さで。目が少し赤かった。それには触れなかった。アリシアも触れなかった。マルタは盆を片手に持ち、軽く頭を下げて扉に向かった。
扉が閉まった。
アリシアはしばらく動かずにいた。茶碗の中の茶が少し冷め始めていた。それを一口飲んでから、窓の外に目をやった。
中庭の向こう、主棟の角の部屋に灯りがついていた。
ヴィクトールの書斎だ。夜になってもあの灯りが消えていないことを、アリシアはこの城に来てからも何度か気づいていた。今日も変わらず、灯りはそこにあった。消えることを急がないように、ゆっくりと燃えていた。
エリーゼという人は、この冬の夜に、同じように中庭の向こうを眺めていたのだろうか。アリシアは問いを心の中にだけ留めた。それは尋ねるべきことではない。しかし今夜、マルタが自分で茶を運んできた意味は、はっきりとした言葉ではないけれど、何かの始まりのように思えた。
この城の人々が、少しずつ自分の方を向き始めている。そういう小さな変化が確かにあった。
アリシアは手帳をもう一度開き、今日の最後の記録を書き加えた。ゲルハルトの警告のことではなく、マルタの言葉を書いた。「エリーゼ様は明るいお方だった」「領主様は今もご自分を責めている」「伝令が三日遅れた」。感情の言葉ではなく、事実として記した。しかし書きながら、それが単なる記録ではないと分かっていた。
もう一度窓を見た。灯りはまだついていた。
続きも順次更新されます。よろしければ次話もお付き合いください。




