第二話 役割のない令嬢
本作は全70話完結予定です。
毎日5話ずつ、07:10 / 12:10 / 18:10 / 20:10 / 22:10 に更新予定です。
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「奥方様のお仕事は、何もございません」
翌朝、ゲルハルトはそう言った。
丁寧な口調だった。実際に親切心から言っているようにも聞こえた。しかしアリシアには、その言葉の意味がはっきりと分かった。あなたはここで何もしなくていい、という意味だ。
「長旅でお疲れのことと存じます。しばらくはお体を休めることを優先なさってください。城内のことは私どもにお任せいただければ、滞りなく参ります。社交や刺繍、お庭の散策なども、ご自由にお楽しみください」
「分かりました」
即答した。感情を出すことも、反論することも意味がない。ゲルハルトは城を二十年以上取り仕切ってきた家令だ。新しく来た令嬢が翌日から口を出せる立場ではないことは、アリシアも承知している。
ただ「何もしない」という状態には、生来の居心地の悪さがあった。
午前中、アリシアは城内を歩いた。把握する、という習慣だった。新しい場所に行ったとき、まず空間の構造を頭に入れる。どこが何の部屋で、どこへ行けばどこに出るか。アルバーン城は広く、廊下が複雑に入り組んでいた。
家政局の前を通ったとき、扉の隙間から帳簿をめくる音と、算盤の乾いた音が聞こえてきた。月次の集計をしているらしい。扉は半開きだったが、アリシアは立ち止まらなかった。自分が入っていく場所ではない。そう思いながら通り過ぎた。
城の西側には小さな庭がある。木が数本と、石造りの低い柵があるだけの質素なものだった。王都の邸宅にあるような花壇も噴水もない。しかし石畳の継ぎ目の草は取り除かれていて、手入れが行き届いていることは分かった。誰かが定期的に世話をしている。そういうことが見えると、この城のことが少し理解できる気がした。立派な飾りはなくても、丁寧に保たれている場所だ。
昼過ぎにマルタが食事を部屋に持ってきた。
「お食事のご用意ができております。本日は領主様もお戻りにならないようでございますので、お一人でどうぞ」
「ありがとうございます」
一人で食べる食事は悪くなかった。王都の貴族家では、食事は「社交」でもある。何を食べるかより誰と何を話すかが重要で、味がよくても気が休まらないことが多かった。ここでは誰の目も気にせず、ただ食べられる。
認められなくていい、とアリシアは思っていた。
正確に言えば、認められることを目的に動いてはいけない、ということだ。認められようとして動いて、認められなかったとき、自分の中のどこかが傷つく。そういう傷を、アリシアはできるだけ作りたくなかった。王都の社交界でも、それを学んでいた。商人の孫娘として半歩引いて扱われる場所では、期待をしないことが一番の防御になる。
だから、何もしなくていいと言われたことは傷ではない。ただの現状だ。現状から何ができるかを考えればいい。
夕方、「辺境伯様がただいまお戻りになりました」とゲルハルトが告げにきた。
アリシアは清潔な服に着替え、挨拶のために廊下に出た。
ヴィクトール・ジークフリートは背が高かった。それが最初の印象だ。旅装のまま城内に入り、ゲルハルトと短く言葉を交わしてから、こちらへ視線を向けた。灰色の目だった。冷たい目ではなかったが、温かい目でもなかった。ただ確認するような視線。値踏みとも興味とも違う、もっと実務的な見方だった。
「遠かっただろう」
それだけ言った。立ち止まりもせずに、通り過ぎながら。アリシアは「はい、おかげさまで」と答えたが、彼の背中はもう廊下の先にあった。
夕食の席では、ほとんど会話がなかった。ヴィクトールは食事をしながら文書を読んでいた。アリシアも無言で食事をした。長い沈黙が続いたが、アリシアはそれほど居心地が悪いとは思わなかった。無言でも気まずくならない人間というのがいる。この人はそういう種類の人間らしいと判断した。
この人は仕事でしか話さない人間かもしれない、とも思った。食事中も文書を離さない。言葉は必要最低限だ。それが不愛想なのか、辺境の作法なのかは、もう少し時間が経たなければ分からない。表情は読みにくく、内心が見えない。ただ、食べるものは粗末にしない人だとは分かった。パンを端まできちんと食べていた。細かなことだが、アリシアはそういうことが気になる。人間の習慣は、言葉より正直なことが多い。
夕食が終わり、部屋に戻ってアリシアは便箋を取り出した。妹への手紙を書こうと思った。クラウディア。本来はこの城に来るはずだった妹が、直前に体調を崩したために代わりに来ることになった。十七歳で、華やかな場所が好きで、社交が得意な妹。元気にしているだろうか。
しかし、筆が止まった。
何を書けばいいのかが分からなかった。「寒いけれど元気です」「城は大きいです」「辺境伯は無口な方です」。何を書いても、何かを省略しているような気がした。到着して一日で「よかった」とも「寂しい」とも、どちらも正確ではなかった。
便箋を引き出しに戻した。代わりに帳簿を取り出した。持参した実家の練習帳だ。父が写しを作らせるために用意してくれた古い帳簿で、何度も確認しているから今さら新しいことは何もない。しかしページをめくると、落ち着く。数字は嘘をつかない。整然とした列を目で追うと、頭の中が静かになる。
翌朝また城内を歩こう、と思った。書庫棟の近くまで行ってみよう、とも。あの古びた建物がずっと気になっていた。整理されていない場所は、逆に言えばまだ誰も手をつけていない場所だ。そこに何があるか、見てみたかった。この城で自分の役割を見つけるとしたら、まず何があるかを知らなければならない。
続きも順次更新されます。よろしければ次話もお付き合いください。




