第一話 アルバーン城
本作は全70話完結予定です。
毎日5話ずつ、07:10 / 12:10 / 18:10 / 20:10 / 22:10 に更新予定です。
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馬車が止まった瞬間、アリシアは目を開けた。
旅程は五日間。王都を発ってから一度も後悔しなかったが、最後の峠を越えてからの寒さには正直、驚いた。四月というのに空気が刃のように冷たく、窓から見える山肌にはまだ白いものが残っていた。眼下の山の斜面に集落が広がり、炊事の煙が細く立ちのぼっている。あれがノルデン城下の人々の暮らす場所だろうか、とアリシアは思った。
扉が外から開く。差し伸べられた手を取って、アリシアは静かに降り立った。冷気が頬を打った。王都とは明らかに違う。空気の質が違う。乾いていて、山の香りがする。
アルバーン城。
目の前にある石造りの城は、王都で見ていた絵画とは違った。もっと古く、もっと重く、六百年の風雪が壁に刻み込まれているような威容だった。美しいとは言いにくいが、確かなものだとは思った。揺るがないものが持つ、静かな圧力がある。これが、私の新しい家になる場所だ。アリシアは一度だけ城を見上げて、それから視線を正面に戻した。
「ベルンフェルト家のご令嬢、ようこそおいでくださいました」
出迎えたのは白髪交じりの壮年の男だった。上等な仕立ての服に、長年の経験が滲み出ている。背筋が真っ直ぐで、頭の下げ方も正確だ。
「家令のゲルハルト・ブレナンと申します。辺境伯様は本日、領内の巡視中でございます。お疲れのことと存じますので、まずお部屋へご案内いたします」
「ありがとうございます」
アリシアは短く答えた。歓迎という温度は感じなかった。義務の遂行という温度だった。それは予想の範囲内だったので、特に気にならなかった。政略結婚で送り込まれた令嬢が、初日から盛大に迎えられる理由はない。
城内に入ると、石の廊下が続いた。アルバーン城は戦時の要塞として設計されているため、採光のための窓は少ない。灯りが少なく暗い。ただ廊下の石は丁寧に磨かれていて、管理が行き届いていることは分かった。
案内された部屋は北向きだった。
アリシアはさっと室内を確認した。窓の向き、扉の位置、暖炉の状態、収納の数。薪は少ないが追加を頼めば済む。調度は最低限だが、机と椅子と棚がある。作業に必要なものは揃っている。問題はない、と判断した。
一つだけ目についたのは、南の窓から見える渡り廊下の先にある建物だった。城の主棟から少し離れたところにある、古びた石造りの平屋。窓が小さく、入口の扉は錆が浮いているように見える。長い間、あまり使われていない雰囲気がある。窓から見える範囲に建物は三棟ほどあったが、あの一棟だけが妙に目を引いた。
「あちらは何の建物ですか」とアリシアが聞いた。
ゲルハルトが少し間を置いた。
「旧い書庫棟でございます。現在は主に過去の文書の保管に使っております。ご不便はございませんか」
「いいえ、十分です。ありがとうございます」
ゲルハルトが出ていった後、侍女頭のマルタが入ってきた。四十代ほどの女性で、動作は無駄なく、視線はアリシアを測るように動いた。礼儀は正しかった。しかし、長年前の奥方に仕えた者が持つ独特の距離感というものが、その沈黙の中に確かにあった。
荷物の整理が進む中で、マルタがひとこと言った。
「前の奥方様のお部屋はこちらではございませんでした」
整理の手を止めることなく、淡々と。声のトーンは何でもないものだったが、アリシアは少しだけ考えた。前の奥方はいなくなった。その部屋は別にある。私はここに通された。それは単純な事実であって、責めるべきことも責められるべきことも、どこにもない。
「そうですか」と答えて、それ以上は聞かなかった。
荷物の整理が終わり、マルタが下がった後、アリシアは窓際の椅子に腰を下ろした。
城下を眺めた。炊事の煙が幾筋かのぼっている。働く人々がいる。領地が動いている。この城の収入の大部分は魔石の採掘が支えていると、移動中に読んだ資料にあった。採掘から精製、売買まで、記録が正しく管理されているかどうかは、やはり帳簿を見なければ分からない。
旅の荷物の中から、アリシアは一冊の帳簿を取り出した。実家から持参した、父の家の財務記録の写しだ。旅の間も、気が向いたとき眺めていた。革の表紙は少し擦れている。父がこれを渡しながら「役に立てるときに役に立て」と言っていた。言葉数の少ない父らしい送り出し方だった。数字の列を目で追う。
どこにいても、これだけは変わらない。数字は正直だ。合っているものは合っていて、間違っているものは間違っている。誰かの機嫌や思惑とは関係なく、ただそこにある。アリシアは幼い頃から、その正直さが好きだった。人間はときどき嘘をつくが、帳簿の数字は計算が合わなければ一目で分かる。
ペンを取って、欄外の小さな誤りを訂正した。
明日、辺境伯が帰城する。ヴィクトール・ジークフリート。前妻を二年前に亡くし、以来ずっと辺境の守りに専念してきた人物。「冷酷」「寡黙」という評判も伝わっていたが、どんな人間なのかは会ってみなければ分からない。
ただ一つ言えることは、アリシアはこの城でやることを決めていた。誰かに認められようとして動くつもりはない。役に立てることをする。それだけでいい。
帳簿を閉じた。窓の外の空が、少しずつ暗くなっていた。北の夜は早い。
明日から、ここが私の仕事場になる。
続きも順次更新されます。よろしければ次話もお付き合いください。




