第十六話 朝の庭
本作は全70話完結予定です。
毎日5話ずつ、07:10 / 12:10 / 18:10 / 20:10 / 22:10 に更新予定です。
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夜明けから間もない時刻、アリシアは城の東庭に出た。
眠れなかったわけではない。ただ、頭の中の数字と表が、明け方になっても静かにならなかった。三年、五年、七年、十年——同じパターン。同じ業者名の末尾だけを変えた記録。同じ八百二十銀貨という金額。証憑のない支払い。寝台の天井を見つめながら、その数字たちが繰り返し頭の中を流れていた。
昨日、ヴォルフに頼んで領主との面談の機会を作ってもらえないか相談した。しかしヴォルフは首を横に振った。「今週は辺境の砦との往来が多い。書斎に入る機会を作るのは難しい」と言った。だから今日も待つことになると思っていた。
夜着から着替えて、廊下を通り抜け、重い扉を押して外に出ると、冷たい朝の空気が肺に満ちた。北の辺境の朝は、王都とは違う。霜が降りているわけではないが、空気の中に鋭さがある。石の壁は冷え切っていて、自分の吐く息がかすかに白かった。庭に出たのは、ただ気分を変えたかったからだった。散歩をして、頭の中を少し整理する。それだけのつもりだった。
石畳を踏みながら庭の奥へ進んでいくと、前方に人影があった。
立ち止まった。
人影はゆっくりと歩いていた。背が高く、肩幅があり、歩き方が静かで重さがある。侍従でも庭師でもない。アリシアは数秒で気づいた。ヴィクトールだ。
胸の中で何かが緊張した。機会は作るものだ、とヴォルフは言っていた。今は機会なのか、それとも邪魔をしてしまうのか。一人でいる時間を好む人間かもしれない。朝の静かな散歩に声をかけることは、失礼になるのかもしれない。アリシアは一瞬迷った。しかし迷っている間に彼の背中は遠ざかっていく。
整理した照合表は部屋にある。今日の午後、書斎に持参することを申し出るだけでいい。それだけのことだ。
「領主様」
声が出た。自分でも少し驚いた。
ヴィクトールが歩みを止めた。振り返った。朝の低い光の中で、その顔は影になっている。アリシアに視線を向けたまま、何も言わなかった。近寄っていいのか分からず、アリシアはその場で深く礼をした。
「お時間をいただけますか。書庫の整理の中で、確認していただきたいことがございます」
ヴィクトールはまだ沈黙していた。その静けさは拒絶ではなく、聴いているときの静けさだとアリシアは感じた。一歩近づいて、続けた。
「三年分の財務記録を確認したところ、一定の不規則なパターンが見つかりました。同一とみられる業者への支払いが、業者名の表記を少しずつ変えて複数回記録されております。金額は毎回八百二十銀貨。しかし対応する証憑書類が、支払い件数に対して著しく不足しています」
事実だけを述べる。感情も憶測も入れない。父が商売の場でよく言っていた。数字は正直だ、しかし言葉は正直でなくてもよい——だから数字を語るときは数字だけを語れ。アリシアはそれを守った。今は「おそらく誰かが着服しています」ではなく「証憑が足りない」と言う。そこで止める。
ヴィクトールの表情は変わらなかった。しかし目が、アリシアをじっと見ていた。その視線は冷たくはなかった。何かを測っているような、静かな注視だった。嘘をついているか確かめているような目だとアリシアは感じた。しかし自分は事実しか言っていない。視線を逸らす必要はなかった。
「三年だけではありません。遡って確認しましたところ、少なくとも十年以上、同じパターンが継続しております」
しばらく沈黙が続いた。庭の木の葉が、朝風でかすかに揺れた。ヴィクトールはアリシアから視線を外さないまま、ゆっくりと口を開いた。
「証拠書類はあるか」
「はい。照合表を作成してあります。支払い記録と証憑の突合結果、業者名の変遷、各年度の金額一覧です。すぐにお持ちできます」
もう一度沈黙があった。短い。
「午後、書斎へ持ってきなさい」
それだけだった。ヴィクトールは短くそう言って、踵を返した。歩き去る背中を見ながら、アリシアは再び礼をした。胸の中に、静かな安堵と緊張が同時にあった。伝わった。それだけは分かった。詳しい言葉はなかったが、受け取ってもらえた。「調べる」とも「問題ない」とも言わなかった。ただ「持ってきなさい」と言った。しかしそれは、見たいということだ。見たいということは、話に耳を傾ける気がある、ということだ。それで十分だった。
部屋に戻って照合表を改めて確認しなければならない。午後の報告に向けて、説明の順序をきちんと整えておく必要がある。今日は忙しくなる。
廊下に戻るために石畳を歩き出したとき、ふと視線を感じた。
背後からではなく、横から。庭の隅、生垣の陰。そこに人が立っていた。
朝の光の加減で顔は見えなかったが、体格と立ち姿で分かった。ゲルハルトだった。いつからそこにいたのか、アリシアには分からなかった。朝の散歩の習慣なのか、それとも誰かを待っていたのか——どちらにしても、この時間に庭の隅に立っているのは不自然だった。
会話のすべてを聞かれていたかもしれない。アリシアはそう思った。しかし振り返って確かめることはしなかった。足を止めず、廊下の扉まで歩き続けた。
ゲルハルトの顔色は、遠目にもはっきりと、白く変わっていた。その目がアリシアを追っているのを、アリシアは見ないようにしながら歩いた。
続きも順次更新されます。よろしければ次話もお付き合いください。




