第十五話 最後の確認
本作は全70話完結予定です。
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夜明け前に目が覚めた。
まだ外は暗い。しかし窓の向こうの空が、ほんのわずかに藍色に変わり始めていた。起き上がって、手と顔を冷たい水で洗う。石の床が足の裏に冷たい。体を覚醒させるために、それでよかった。水を張った盥に指を入れると、まだ夜の冷気が残っていた。これが辺境の朝だ。南の実家では、冬でもこれほど冷たい水を使うことはなかった。しかし今は慣れた。
鏡の前で手早く支度を整えた。今日は服装に少し気をつけた。動きやすい、しかし見苦しくない格好。庭で声をかけるのだから、相手に「急に何だ」と思わせないほうがいい。見た目の整いはそのまま、判断の整いの印象を与える。細かな心遣いだが、父が「商談は入室した瞬間に七割が決まる」と言っていた言葉を思い出した。
袖の内側に要約書が入っている。三週間の作業を一枚にまとめたものだ。「精製費用記録の不整合について」という見出しの下に、事実だけを箇条書きにした。業者名の変遷パターン、支払い回数と証憑件数の不一致、年間の概算総額。感想は一文字も入っていない。
書庫へ向かった。庭に行く前に、もう一度記録を確認したかった。これが今日の庭での報告を正確にするために必要なことだ。報告する直前に記録を見直す習慣は、父の商会で身についた。「昨日の事実と今日の事実を区別する。記憶は一晩で変形することがある」と父は言っていた。
書庫の扉を鍵で開けると、朝の薄暗い光が奥まで届かない。燭台に火を点けて棚の前に立った。昨日の確認から変化がないか、まず配置メモと照合する。棚の並びは昨日と変わっていない。少し息を吐いた。昨夜も帳簿が動かされていたのではないかという懸念があったが、今朝は大丈夫だった。
今日は採掘量と精製費用の比較を再度確認した。制限区域の棚には入れないが、精製費用の帳簿から計算できることがある。一月あたりの精製費用が同じだとして、採掘量が減っていれば一単位あたりの費用が上がるはずだ。それは記録の中の別の欄に痕跡が残っているかもしれない。
見つかった。
「月次精製単価」という集計欄がある。三年前から数字が変動している。減っている。精製単価が下がっているということは、同じ費用でより多くの量を精製したことになる——しかし採掘設備は老朽化が進んでいると聞いた。それは矛盾する。
老朽化した設備で精製単価が下がるためには、精製量の分母が増えるか、費用の分子が減るかのどちらかだ。費用は変わっていない。とすれば——「精製量として記録されている数字」が実態より多い。つまり採掘量を多めに記録して精製単価を下げて見せているのか。あるいは単純に、記録が作られたものなのか。
仮説は仮説だ、とアリシアは自分に言い聞かせた。確定ではない。しかし「採掘量の記録に問題がある可能性がある」という推論は、今の段階では成立している。これを「確認された事実」として報告してはいけない。「確認された事実から導かれる仮説」として伝える。その区別がなければ、信頼できる報告にならない。
今日の庭での報告に、この仮説は含めるか。少し考えて、含めないことにした。まず確実な事実を届ける。仮説は後から追加できる。最初の報告に仮説を混ぜると、確定した事実まで「彼女の推測」として扱われるかもしれない。
これをメモに書き加えた。「精製単価の変動が採掘設備の老朽化と逆方向。採掘量の記録操作の可能性。確認は制限棚のため保留。今日の報告には含めない」。
燭台を消して書庫を出た。廊下の窓から外を見ると、空が明るくなり始めていた。橙と灰色が混ざった、辺境の朝の色だ。南の故郷では夜明けはもっと明るく、赤みがかっていた。こちらは重たく、ゆっくりと空が開ける感じがする。しかし今はその違いが、不快ではなかった。
庭へ向かう。
石畳の廊下を歩きながら、アリシアは頭の中で言葉を整えた。「書庫の帳簿を整理しておりましたところ、財務記録に継続的なパターンの不整合を確認しました。詳細は照合表にまとめております」。それだけ言えれば十分だ。続きは書類が語る。
余計なことを言ってはいけない。「不正です」という言葉は使わない。「ゲルハルト様が」とも言わない。確認された事実のパターンだけを伝える。後は相手が判断する。これは父の商会で身についた流儀だ。「数字の仕事をする人間は、事実を届けるのが仕事。判断は持ち場ごとに違う者がする」。
廊下の窓が徐々に明るくなっていく。朝の光が石の床に細長く差し込み始めた。
城の南口から外に出た。
朝霧の中に、庭の石畳が見えた。そしてその中に、一人の人影があった。
背が高い。旅装ではない、城内の服装だ。こちらに背を向けて、ゆっくりと歩いている。一定の速さで、迷いなく歩いている。毎朝の習慣がある人間の歩き方だ。
アリシアは足を止めた。心臓が少し速くなるのを感じた。緊張ではない。いや、少し緊張している。しかしそれは悪い緊張ではなかった。やるべきことの前に来る、正直な反応だ。
要約書の感触を袖の内側で確かめた。折り目が指に当たる。三週間分の作業がここにある。
息を一度深く整えてから、それからゆっくりと、人影に向かって歩き始めた。石畳が足の下に硬く、確かに感じられた。朝霧が足元から漂っていた。
続きも順次更新されます。よろしければ次話もお付き合いください。




