願いし事なれば
地方豪族の記録など、どこにも残っているはずが無かった。戦国、江戸、昭和、戦争、色々ある。誰がどこで何をなど、分かるはずもない。
私は、山と積まれた書類に埋もれながら、その凝った肩をほぐしながら、もう一度、詠み人知らずの唄を口ずさむ。
願へども こうがい刺さじ 蛤よ 貝合わせども 君はおわせじ
…彼は、後悔していたのだろうか。
思い返すのは、おおよそ江戸当たりに発光された稲葉伝説の浮世絵。稲穂之近衛武士姿図。二枚目な顔立ちは創作だとしても、その笄だけが空っぽな刀を佩く彼の、その腰には、朱紐で括られた蛤の貝殻が、しかし片方が欠けながら、ゆらゆらと彷徨っていた。
参考にはならなかったが、それでも鮮烈な印象を与えたあの浮世絵の武士は、最愛の人がいなくなった後の世界を、どう生きたのだろうか。
もしかしてだが、彼は自分の記録を意図的に抹消したのではないだろうか。その心情は察せられずとも、こんなにも的確に彼の情報だけ出てこないのはおかしい。
ふと、びょうと春の風が桜の花弁を舞わせながら大学院棟の古いガラス戸を叩く。そのあまりにも美しい光景に、親友の言葉を思い出す。
「誰にも見つからないってのも、幸せだと思うよ。いや、お前の古典を否定しているわけじゃないんだけどさ、美しき想い出を、尊い願いを、誰の目にも触れられない場所に置いておく。この行為に名前を付けるなら、もうそれは恋なんかじゃない。愛だ」
文学科の彼の言葉はいつも抽象的だ。でも、今回は私にも分かる。だからこそ、無理矢理にでも武士の心を察するなら、何よりも大切な想いを唄にして千年先に届けることよりも、呑み込んで、ただ静かに歴史の波の中に置いてきたのではないだろうか。
なんて、妄想猛々しいか。資料が見つからないなんて、学芸員ならば当たり前のことか。
私は、もう一度、資料に目を通す。少しずつでも、歴史の空白に手を伸ばす。
澪標和歌集、その一ページ目の一句を、私は改めて読み上げる。
澪標和歌集
第一句
願うなら 光なき世も みおつくし 迷える道も 我照らしたる




