第8話
不埒な求婚者を追い払った翌日の午後――ガブリエルと出会ってから九日目のことである。
お出かけ用の帽子を被り、愛用の手提げ鞄を持った私は、玄関の扉を開けて庭の隅へと声をかけた。
「ガブリエル様。少し街まで買い物に出ますわよ」
白線の向こうで庭木の枝を揃えていたガブリエルが、ぱっと顔を上げた。
「街へ行くのか! 昨日の今日だ、またヴェイン子爵家の連中が待ち伏せしていないとも限らん。門の外から一定の距離を保って護衛しよう!」
「いいえ、五メートル後ろから尾行される方が目立って不審ですわ」
私は石段を降り、白い線を越えて彼の目の前まで歩み寄った。
「昨日は私の盾としてよく働いてくださいましたから、今日は特別です。茶葉と刺繍糸の買い出しに行きますの。……荷物持ちとして、私の隣で一緒に来ますか?」
ガブリエルは目を丸くし、次の瞬間には太陽が弾けたみたいに顔を輝かせた。
「い、いいのか!? この私が、君の隣を並んで歩いても!」
「ええ。ただし、街中で大声を出すのは禁止ですわよ。さあ、参りましょう」
私が先に立って鉄柵の門を出ると、ガブリエルは「心得た!」と胸を張り、少しだけ歩幅を合わせて私のすぐ隣に並んだ。
午後のにぎわいを見せる街の大通りへ入ると、いつもの光景が広がった。
私の全身からゆらゆらと立ち昇る紫黒の瘴気に気づいた通行人たちが、ひっと息を呑んで左右へと道を開けていく。私を中心に、半径五メートルの綺麗な空白の円ができあがり、私が一歩進むごとにその円も一緒に移動していくのだ。
これまで一人きりで街を歩いていた時も、誰にもぶつからずに済むこの快適さは気に入っていた。
けれど今日、その誰も立ち入れないはずの五メートルの円のすぐ内側に、白銀の胸当てを揺らす大男が当たり前の顔で並んでいる。
「ふふ、こうして見ると本当に不思議ですわね。周りの人たちはあんなに青ざめて避けていくのに、あなただけは春の散歩みたいに涼しい顔をしていらっしゃる」
「うむ? 本当にただの心地よい散歩だからな! しかし、周囲に人が寄ってこないおかげで、君の声がよく聞こえて実にいい!」
ガブリエルが屈託なく笑うので、私は呆れたように肩をすくめた。
まず立ち寄ったのは、大通りに面した紅茶の専門店と手芸店の露店だった。
いつもなら、怯える店主を刺激しないよう、メモ帳に欲しい銘柄を書いて台の端に置き、五メートル下がって品物を受け取るのが常だった。今日も店主は店の奥へ引っ込みかけている。
だが、私は店頭に並んだ茶葉の標本瓶を手に取り、隣にいるガブリエルへと差し出した。
「ねえ、ガブリエル様。この柑橘の香りの茶葉と、あちらの花びらが入った茶葉、どちらが香りがいいかしら?」
「どれどれ……ふむ、どちらも華やかで良い香りだな! だが正直に言えば、この前君が庭で淹れてくれたあのアールグレイが一番好きだ!」
「もう、新しいお茶を選んでいるのですから、参考になりませんわね!」
私が軽く睨むと、ガブリエルは「す、すまん!」と頭をかき、今度は真剣な顔で刺繍糸の束を見比べ始めた。
「こちらの深い青色の糸はどうだろうか。君の瞳の色によく似ていて、とても綺麗だと思うが」
「……まあ。悪くない見立てですわね。では、その青と、こちらの銀色の糸もいただきましょう」
私が注文の品と銀貨を台の上に置き、ガブリエルが離れた場所にいる店主へ穏やかに会釈して紙袋を受け取る。
一人で筆談だけで済ませていた買い物は手軽だったけれど、こうして隣にいる誰かと「どちらがいいか」と言葉を交わしながら品物を選ぶ時間が、これほど胸を弾ませるものだとは知らなかった。
「荷物はすべて私が持とう! まだ重くはないぞ!」
「たかが茶葉と糸の小袋ですもの、重いはずがありませんわ。……ええと、せっかくですから、少しお茶をしてから帰りましょうか」
私が足を向けたのは、九日前にすべてが始まった、あの街角のカフェだった。
見覚えのあるテラス席へ踏み込むと、数人の客たちが蜘蛛の子を散らすように席を立って逃げていく。
私がいつもの丸テーブルの椅子に腰を下ろすと、ガブリエルは感慨深げにテーブルの横の石畳を見つめた。
「ここが……あの日、私が聖剣を突き立てた席だな」
「ええ。あなたがスコーンに砂埃を浴びせ、私がお返しに粗塩を顔面にぶちまけた記念すべき場所ですわ」
「ぐっ……あ、あれは本当に面目ない! いまだに睫毛の奥がしょっぱい気がするぞ!」
小さくなって肩をすくめる筆頭聖騎士に、私は声を立てて笑った。
店の入り口から五メートル離れた位置で震えている店員へ、ガブリエルがジェスチャーと落ち着いた声で「紅茶とスコーンを二人分頼む」と伝え、ワゴンで運ばれてきたお茶セットをテーブルへと並べてくれる。
そして彼は、私の向かい側の席に静かに腰を下ろした。
あの日、一人きりで「最高だわ」と呟いていたテラス席の向かいに、今は湯気の立つカップを前にして嬉しそうに目を細める彼がいる。
「……どうぞ。今日は粗塩を投げたりしませんから、ゆっくりお飲みなさい」
「ああ、いただこう!」
ガブリエルはスコーンを一口かじり、紅茶を飲んで、心の底から幸せそうに息をついた。
「やはり、こうして君と向かい合って飲むお茶は格別だな。あの日、塩をぶちまけられた時はどうなることかと思ったが……今こうして同じテーブルに座れているのが、夢のようだ」
「それは私の台詞ですわ。まさか、平穏を壊しに来た張本人を自分からお茶に誘うことになるなんて、九日前の私に言っても絶対に信じませんもの」
私はティーカップを傾け、香り高い紅茶を口に含んだ。
周囲五メートルには相変わらず紫黒の瘴気がゆらめき、世間の雑音を遠ざけている。けれど、その静かな防壁の内側はもう一人きりではなく、彼の温かい体温と優しい声で満たされていた。
美味しいお茶と、気の置けない軽口。
胸の奥がふんわりとほどけて、私の唇から自然と柔らかな笑みがこぼれた。
「……っ」
向かいの席で、ガブリエルが息を呑む音がした。
顔を上げると、彼はカップを持ったまま固まり、耳の先から首筋までを真っ赤に染めて私の顔を見つめていた。
「な、なんですの、急に黙り込んで。私の顔にスコーンの粉でもついております?」
「い、いや……! 今、君があまりにも綺麗に笑ったものだから、その、心臓が止まるかと思ったのだ……!」
「なっ……! な、何を馬鹿なことを仰っているのです! 早くお茶をお飲みなさい!」
今度は私の頬が熱くなり、慌てて帽子のつばを手で引き下げた。
二人の間に、甘酸っぱくて少しむず痒い沈黙が落ちる。
けれど、そんな穏やかで幸福な時間は、私たちが買い物の袋を提げて別邸へと帰り着いた瞬間、現実に引き戻された。
夕暮れの別邸の門前に、神殿騎士団の制服を着たルーカス副団長が、厳しい顔で馬を止めて待ち構えていたからである。




