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私の呪いを解かないでください、平穏なので!  作者: 九葉(くずは)


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第7話

父からの手紙を屑籠へ放り込んだ翌日の午後――ガブリエルと出会ってから八日目のことだった。

別邸の鉄柵の門の前に、金色の装飾をこれみよがしに施した豪奢な馬車が横付けされた。


テラスの椅子で刺繍枠を手にしていた私は、嫌な予感がして針を止めた。

馬車から降り立ったのは、けばけばしい深紅の礼服を着た小太りの青年と、二人の従者だった。手紙に書かれていた見合い相手、ヴェイン子爵令息に違いない。


子爵令息は門の隙間から庭を覗き込み、私を取り巻く紫黒の瘴気を目にすると、不快そうに鼻を鳴らした。


「おい、伯爵からは『すでに聖騎士が解呪したはずだ』と聞いていたが、まだあの気味の悪い黒煙が出ているではないか!」

「いかがなさいますか、若様。一度引き返しますか?」

「馬鹿を言え。まだ呪われているなら、むしろ好都合だ。こんな化け物じみた娘を引き取ってやると言えば、伯爵家に対してどれほど高く恩を売れると思っている。結婚してしまえば、あとは離れにでも閉じ込めて持参金と家名だけ使えばいいのだ」


門の外で交わされる下卑た会話が、風に乗ってテラスまで届いてくる。

私は刺繍枠をテーブルに置き、冷ややかな目で立ち上がった。裏庭で薪を片付けていたガブリエルも、すぐに気配を察して生垣の脇へと姿を現し、私の指示を待つように視線を向けてくる。


子爵令息は懐から、鈍い銀細工の円盤を取り出した。


「念のため、王都の闇市で大枚をはたいて『防呪の護符』を買っておいて正解だったな。十数分しか持たぬ一度きりの使い捨てだが、あのお嬢様を馬車へ引きずり込むには十分だろう」


彼が護符の留め金を捻ると、パチンと火花が散り、彼の全身を薄い琥珀色の光の膜が覆った。

従者たちを門の外に残し、子爵令息が一人で勝手に門扉を押し開けて庭へと踏み込んでくる。


「ご機嫌よう、哀れなヘレナ嬢! 将来の夫である私が、直々に迎えに来てやったぞ!」

「……誰が誰の夫ですって? ここは私の敷地ですわ、今すぐ出ていきなさい!」


私が一喝しても、子爵令息は下品な笑みを浮かべたままずかずかと芝生を横切ってきた。

私から半径五メートルの境界線に彼の足が踏み込む。いつもなら、ここでどんな人間も顔面蒼白になって逃げ出すはずだった。


だが、バチバチッと嫌な音がして、彼を覆う琥珀色の膜が私の紫黒の瘴気を弾いたのだ。

使い捨ての魔道具とはいえ、精神威圧の呪いを一時的に遮断しているらしい。護符の表面には早くも細かい亀裂が走り始めていたが、子爵令息は勝ち誇ったようにテラスの石段を駆け上がってきた。


「ははっ、本当に効かんな! さあ、大人しく私と一緒に伯爵邸へ来てもらおうか!」

「お断りします! その汚らわしい手を引っ込めなさい!」


私はテーブルを盾にするように一歩後ずさった。

それでも子爵令息は距離を詰め、私の手首を強引に掴もうと脂ぎった手を伸ばしてくる。その指先が私の袖に触れそうになった瞬間、私は迷わず庭の隅へ向かって声を張り上げた。


「――ガブリエル、お願い!」


初めて『様』をつけずに呼んだ私の声が、庭の空気を震わせた。

その瞬間、白銀の疾風がテラスへと吹き込んだ。


ダンッ! と石畳を踏み抜くような音が響き、私と子爵令息の間にガブリエルの広い背中が立ちはだかった。

彼は私を完全に背中で庇いながら、鞘から抜いた聖剣を片手で軽々と構えていた。


「な、なんだ貴様は!? なぜ筆頭聖騎士がこんなところで庭師のような真似をしている!?」

「この家の門番だ。そして――ヘレナ嬢の平穏を守る盾だ!」


ガブリエルの碧眼が、氷のように冷たく細められた。


「貴様、今ヘレナ嬢が『断る』と言ったのが聞こえなかったのか。本人の意思を無視して手を触れようとするなど、騎士として、いや一人の男として万死に値する!」

「うるさい! 私は伯爵閣下の許しを得ているのだぞ! 貴様こそ、さっさとその娘の忌まわしい呪いを祓って私に引き渡せ!」


子爵令息が唾を飛ばして怒鳴り散らす。

だが、ガブリエルは鼻で笑うことすらなく、静かに聖剣の切っ先を上げた。剣身に集まるのは、私の瘴気を焼き払うための広範囲の浄化光ではない。針の先ほどに鋭く研ぎ澄まされた、一点集中の神聖魔力だった。


「私が祓うのは、彼女の大切な盾ではない。貴様のその不埒な下心だけだ!」


ガブリエルが踏み込み、目にも止まらぬ速さで聖剣の峰を振るった。

キィン! と澄んだ高い金属音が響く。


切っ先は子爵令息の体にはかすりもせず、彼の胸元に下げられていた『防呪の護符』の中心だけを、寸分の狂いもなく正確に打ち抜いていた。

パリン、とガラスが砕けるような音を立てて護符が粉々に飛び散り、子爵令息を覆っていた琥珀色の膜が霧散する。


「え……? あ、おい、私の護符が――」


子爵令息が間抜けな声を上げた、まさにその時だった。

防壁を失った彼の全身を、私の周囲にいつも通り立ち昇っている半径五メートルの『嗤う魔女の呪い』が、ゼロ距離で直撃したのだ。


私から特別な攻撃を仕掛けたわけではない。ただ、すぐ後ろに立っている私の通常の瘴気が、護符を失った彼をそのまま飲み込んだだけである。


「ひっ……ぎゃあああああっ!?」


子爵令息の顔から、一瞬で血の気が引いた。

魂を底から凍りつかせるような本能的恐怖と悪寒をまともに浴び、彼は目を見開いてガタガタと震え出す。


「な、なんだこれは……! 黒い影が、笑って……うわあああっ、助けてくれえええっ!」


子爵令息はテラスの石畳に無様に尻餅をつくと、四つん這いになって石段を転がり落ちた。そのまま靴が脱げるのも構わず、悲鳴を上げながら門の外の馬車へと逃げ帰っていく。従者たちもパニックに陥った主を慌てて馬車に押し込み、猛スピードで街道を走り去っていった。


嵐のような騒ぎが去り、庭に再び静寂が戻る。

ガブリエルは聖剣をチャリンと鞘に収めると、心配そうに私の方へと振り返った。


「ヘレナ嬢、怪我はないか!? 手首を掴まれそうになっていたが……」

「え、ええ。あなたがすぐに間に入ってくれたおかげで、指一本触れられておりませんわ」


私は少し早鐘を打つ胸を押さえながら、目の前のガブリエルを見上げた。

彼は私の呪いを消すのではなく、私の呪いがそのまま防犯結界として働くように、相手の魔道具だけを正確に砕いてみせたのだ。


「……見事な剣筋でしたわね。私の瘴気を少しも乱さず、あの小さな護符だけを割るなんて」

「当然だ! 君が愛する平穏の盾を、私の光で傷つけるわけにはいかないからな!」


ガブリエルは誇らしげに胸を張り、それから少し照れたように頬をかいた。


「それに……さっき君が、初めて私の名を呼び捨てにして頼ってくれただろう? あれで力が百倍出たのだ!」

「なっ……! あれは緊急事態だったから、敬称を省いただけですわ! 勘違いしないでちょうだい!」


耳まで熱くなるのをごまかして、私はぷいと顔を背けた。

けれど、自分の背を守ってくれた彼の広い背中の頼もしさは、いつまでも目の奥に焼き付いて離れなかった。


ただ、あの見苦しく逃げ帰った子爵令息と父が、このまま大人しく引き下がるとは思えない。実家から神殿の上層部へと怒りの苦情が持ち込まれ、ガブリエル自身の立場が危うくなるのは、もう時間の問題だった。


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