第6話
ガブリエルとカフェで出会ってから七日目、彼に庭の片隅を貸してからは六日目の朝を迎えた。
最初に定めた七日間の期限が、いよいよ明日に迫っている。
朝の光を浴びながらテラスで紅茶を嗜んでいた私の耳に、門前の通りを走り去る慌ただしい馬の蹄の音が届いた。
庭の白線の外で落ち葉を掃いていたガブリエルが、箒を止めて門の方を振り返る。それとほぼ同時に、門の郵便受けから書状を回収してきたマルタが、テラスから五メートル離れた廊下の配膳台へとやってきた。
「お嬢様、王都の本邸から使いの者がこれを投げ入れていきましたよ。封蝋は旦那様のものです」
「……父から? 今さら何の用かしら」
私が顔をしかめると、マルタは「ろくなご用件ではありますまいねえ」と肩をすくめ、銀の盆に載せた分厚い封筒を配膳台に置いて下がっていった。
私は立ち上がって封筒を手に取り、ペーパーナイフで封を切った。
中から出てきた羊皮紙には、父の傲慢で角張った筆跡が並んでいる。目を走らせた瞬間、せっかくの朝のお茶の香りが吹き飛ぶような不快感がこみ上げてきた。
『ヘレナへ。神殿本部に嘆願し、最強と名高い筆頭聖騎士をそちらへ派遣させた。いかに忌まわしい魔女の呪いといえど、すでに浄化が完了している頃合いだろう。つきましては来週、王都にてヴェイン子爵令息との見合いを執り行う。早々に荷をまとめて本邸へ戻るように。――アシュフィールド伯爵』
「……っ、どこまで身勝手な人たちなの!」
私は思わず手紙を握り潰しそうになり、バンッとテラスの丸テーブルに叩きつけた。
そのただならぬ気配に、庭にいたガブリエルが箒を置いて白線の手前まで駆け寄ってきた。
「ヘレナ嬢、どうした!? 顔色が険しいが、その手紙に何か書かれていたのか!」
「ええ、最悪のお知らせですわ! あなたに隠しておく理由もありませんから、そこまで来てお読みなさい!」
私がテーブルの上の手紙を指差すと、ガブリエルは「失礼する!」と白線を越え、私の紫黒の瘴気をものともせずにテーブルの脇まで歩み寄ってきた。
文面に目を落としたガブリエルの眉間が、みるみるうちに深く寄っていく。
彼の大きな手がわなわなと震え、碧眼に激しい怒りの炎が宿った。
「なんだ、この手紙は……! 君の体調や気持ちを気遣う言葉が一行もないではないか! まるで修理に出した道具が直ったから回収する、と言わんばかりの命令だぞ!」
「いつも通りの父ですわ。私が呪われた時は『家の恥さらしめ、二度と敷居を跨ぐな!』と怒鳴り散らして追い出したくせに、呪いが解けたと思い込んだ途端、これですもの」
私は椅子に深く腰を下ろし、冷めた目で手紙を見やった。
「ヴェイン子爵家といえば、最近王都の鉱山利権で羽振りがいいと聞く成金貴族ですわね。でも爵位の格と血統が欲しい向こうと、領地の運営資金や取引の後ろ盾が欲しい父との間で、ちょうどいい政略の材料が見つかったのでしょう」
「そんな取引のために、君をまた社交界へ引きずり出そうというのか!? しかし、昨夜の君の話では、この別邸は母方のお祖母様から君個人に遺された家なのだろう? 伯爵に君を追い出す権利などないはずだ!」
「ええ、この家の所有権も居住権も私にありますし、一年前にここへ移ることも父自身が認めておりますわ。ですから家を取り上げることはできません」
私は忌々しげに唇を尖らせた。
「ですが、私が未婚である限り、王国の法では父親に『娘の婚姻を定める親権』が残っておりますの。家の権利には手を出せなくても、縁談を勝手に決めて見合いの席へ呼びつけることくらいは、親権を盾に強行できてしまうのですわ」
もしあの日、カフェでガブリエルに呪いを解かれていたら、今頃は有無を言わさず本邸へ連れ戻され、見ず知らずの子爵令息に売り渡されていたに違いない。
つくづく、あのときスコーンの粗塩をぶちまけて正解だったというものだ。
「……許せん!」
低く唸るような声が響いた。
見上げると、ガブリエルが腰の聖剣の柄をギリッと握りしめ、今にも駆け出さんばかりに身を乗り出していた。
「娘の苦しみも知らず、幸福を願うどころか利権の駒として呼び戻すなど、親のすることではない! ヘレナ嬢、私が今すぐ王都の伯爵邸へ乗り込み、この理不尽な縁談を白紙に戻させてこよう!」
「ちょっ、お待ちなさい!」
私が制止するより早く、ガブリエルは一歩踏み出し――そこで、はっと息を呑んで自分の足を止めた。
彼は握りしめていた拳を見つめ、ふうっと長い息を吐き出して肩の力を抜いた。それから、すぐそばにいる私の方へと静かに向き直った。
「……すまない、ヘレナ嬢。また私の悪い癖が出るところだった」
「ガブリエル様……?」
「私が怒りに任せて伯爵家へ怒鳴り込めば、かえって騒ぎが大きくなり、君が大切にしているこの別邸の平穏を乱してしまう。私の正義感を振りかざすのはもうやめると、昨夜誓ったばかりだった」
ガブリエルは私と視線の高さを合わせるように少し身を屈め、真摯な声で尋ねた。
「私が勝手に動くことはしない。……ヘレナ嬢、君自身はどうしたい? 君が望む対処を教えてくれ」
その言葉に、私は目を瞬かせた。
出会った頃の彼なら、私の制止など聞く耳を持たずに王都まで突撃していたはずだ。なのに今の彼は、あれほど本気で私のために怒ってくれながら、最後には必ず私の意思を確かめてくれる。
胸の奥に温かいものが広がるのを意識しながら、私はテーブルの上の手紙を裏返して置いた。
「……実家と正面から揉めて、騒ぎを大きくするのはごめんですわ。幸い、私の周囲にはこうして『嗤う魔女の呪い』が健在です。返事も出さずに無視しておけばよろしいの。仮に父や見合い相手が怒ってここへ来たところで、この半径五メートルの瘴気がある限り、私に指一本触れられませんもの」
「なるほど! まさに君の言う通り、その呪いこそが最強の防犯結界というわけだな!」
「ええ、その通りですわ。……ただ」
私は少しだけ言葉を切り、目の前の頼もしい聖騎士を見上げた。
「父のことですから、手紙を無視されたら、見合い相手を直接この別邸へ差し向けてくるかもしれません。瘴気で近づけなくても、門の前で騒がれたら私のお茶の時間が台無しになってしまいますわ」
「うむ、確かにそれは迷惑だな!」
「ですから、ガブリエル様。あなたとの七日間の滞在期限は明日まででしたけれど……前倒しで、もうしばらく期間を延長してあげますわ。もし実家の使いや招かれざる求婚者が押し掛けてきたら、私の門番として、ここから追い払っていただけますか?」
私がそう告げると、ガブリエルはぱあっと顔を輝かせ、胸の太陽の紋章を叩いた。
「喜んで引き受けよう! 君が『もう良い』と言うその日まで、このガブリエル・フォン・ルクス、いかなる外敵も君の半径五メートルには近づけまい!」
「声が大きいですわよ、門番様」
たしなめつつも、私の口元には自然と笑みが浮かんでいた。
手紙をそのまま屑籠へ放り込み、私たちは何事もなかったかのように朝の穏やかな時間へと戻った。
だが、欲に目の眩んだ父と求婚者の執念は、私の予想よりもずっと早く、翌日の午後には別邸の門前へと迫ってくるのだった。




