第5話
あの騒がしい筆頭聖騎士と出会ってから、六日目の夜が更けていく。
寝間着の上に厚手のショールを羽織った私は、火を灯した小さなランタンを手に、夜のテラスへと足を踏み出した。
ひんやりとした夜風が頬を撫で、私の周囲に漂う紫黒の瘴気をかすかに揺らす。
庭の片隅、石灰で引いた白線のすぐ向こう側では、もうひとつの小さなランタンが灯っていた。天幕の前に腰を下ろしたガブリエルが、白い布で聖剣の刀身を丁寧に拭っている。
私が石段の端で立ち止まると、ガブリエルはすぐに気配に気づいて顔を上げた。
「ヘレナ嬢? こんな夜更けにどうしたのだ。私の立てる音が眠りを妨げてしまっただろうか!」
夜の静寂を壊さないよう、彼は慌てて声を潜めながら立ち上がった。刀身を鞘に収め、白線の向こうで姿勢を正す。
「いいえ、音などしておりませんわ。ただ少し、眠れなかっただけです」
私はテラスの手すりのそばにランタンを置き、彼から五メートル離れた位置で足を止めた。
昨日、紅茶を差し上げた時は二メートルまで近づくことを許したけれど、夜はまた元の距離に戻る。彼もそれを心得ていて、白線から一歩も踏み出そうとはしなかった。
「それより、ガブリエル様。ひとつだけ伺ってもよろしくて?」
「うむ、何なりと聞いてくれ」
「昨日のお昼、あなたの同僚の副団長様が門の前で仰っていたことです。なぜ神殿の上層部とやらは、そこまで私の解呪を『功績』にしたがるのです? 私ひとりの呪いが解けたところで、国が救われるわけでもありますまいに」
問いかけると、ガブリエルはランタンの灯りに照らされた碧眼をわずかに伏せた。
いつもの朗らかな笑顔が消え、鞘の柄を握る彼の指にぎゅっと力がこもる。少しの間、話す言葉を選ぶように夜空を見上げてから、彼は静かに口を開いた。
「……私は、物心ついた頃から神聖魔力が強すぎたのだ。七つの時に神殿へ引き取られて以来、ずっと『太陽神が遣わした奇跡の象徴』として育てられてきた」
「象徴、ですか」
「ああ。神殿が王宮や貴族たちに対して権威を保つためには、目に見える『奇跡の実績』が常に必要になる。だから私は、名門貴族の屋敷に祟りや呪いがあると聞けばどこへでも派遣され、ただ命じられるままに剣を振るって祓い続けてきたのだ」
彼の声には、誰かを恨むような響きはなかった。ただ淡々と、事実だけを並べるような低い声だ。
「アシュフィールド伯爵家の令嬢を苦しめる高難度の呪いを、筆頭聖騎士が一刀のもとに浄化した――そうなれば、神殿の威信はさらに高まり、伯爵家にも大きな恩を売れる。上層部にとって、私はそのための最も都合のいい舞台装置というわけだ」
私は思わず息を呑んだ。
舞台装置。それは、かつて私が実家で扱われていた立場と、あまりにも似通っていたからだ。
だが、ガブリエルはそこで強く首を横に振り、真っ直ぐに私を見つめ返した。
「だが、誤解しないでくれ、ヘレナ嬢! 今話したのは、初日に君のカフェへ踏み込んだ言い訳ではない!」
「え……?」
「神殿の期待がどうあれ、嘆願書の文字だけを鵜呑みにして、君本人の声を聞こうともしなかったのは私自身の弱さだ。功績や義務という色眼鏡で人を見て、勝手に『救うべき可哀想な人』だと決めつけた。それだけは、誰のせいでもない私の罪だと思っている」
彼は胸に手を当て、夜の闇の中で凛とした声を響かせた。
「だから私は決めたのだ。これからは神殿の広告塔としてではなく、私自身の意思で剣を振るう相手と行動を選ぶとな!」
一点の迷いもないその瞳に、私の胸の奥がじんわりと温かくなった。
自分の苦境を並べて同情を引こうとする男なら、その場で屋敷へ引き返していたところだ。けれど彼は、自分の過去を種明かしに使っただけで、自分の非を少しも誤魔化そうとしなかった。
「……本当に、馬鹿みたいに真っ直ぐな方ですわね」
私はショールの端を握り直し、手すりの上のランタンに目を落とした。
彼がそこまで自分の言葉で話してくれたのなら、私も少しだけ、自分の輪郭を明かしてもいい気がした。
「私もね、似ておりますのよ」
「君も?」
「ええ。呪われる前の私は、アシュフィールド伯爵家がより高い爵位や利権を得るための『綺麗に飾られた人形』でしたわ。父が連れてくる傲慢な求婚者たちに愛想笑いを浮かべ、社交界では家の体面のために心を削る毎日。私が何を好きで、何を嫌がっているかなど、家族の誰一人として興味を持っておりませんでした」
一年前、遺跡の調査に同行させられたのも、有力な侯爵子息の機嫌を取るためだった。そこで偶然『嗤う魔女の呪い』を受けた時、父が真っ先に口にしたのは私の身を案じる言葉ではなく、「傷物になって使い物にならん!」という怒号だったのだ。
「でも、この紫黒の瘴気が私を包んだ日から、すべてが変わりましたわ。鬱陶しい求婚者たちは蜘蛛の子を散らすように逃げ出し、実家も世間体を気にして私を追い出した。……幸い、この別邸は亡き母方の祖母が私個人に遺してくれた家でしたから、ここへ移り住むことだけは父も文句を言えなかったのです」
私は自分の周囲でゆらめく瘴気を見つめ、自然と口元をほころばせた。
「ここに来て初めて、私は誰にも値踏みされず、自分のためだけに紅茶を淹れて本を読む自由を手に入れましたの。ですから、この呪いは私にとって悲劇などではなく、私自身を取り戻してくれた大切な盾なのですわ」
話し終えて顔を上げると、白線の向こうでガブリエルが深く、本当に深く頷いていた。
これまでの彼なら「なんて可哀想な!」と大騒ぎしていたかもしれない。けれど今の彼は、哀れむような目ではなく、ひとりの自立した人間を見る穏やかな眼差しで私を見ていた。
「……話してくれてありがとう、ヘレナ嬢。君がこの場所と、その瘴気をどれほど誇り高く愛しているか、よくわかった」
「ええ。もう二度と『可哀想な令嬢』などと呼ばないでちょうだいね」
「ああ、二度と呼ばない! 君は自らの平穏を勝ち取った、実に強く美しい女性だ!」
最後だけ少し声が大きくなりかけて、彼は慌てて両手で口を押さえた。
その仕草がおかしくて、私は夜風の中でくすりと笑みをこぼした。
「もう夜も更けましたわ。風邪を引かないうちに天幕へお入りなさい。……おやすみなさい、ガブリエル様」
「うむ。良い夢を、ヘレナ嬢。おやすみ」
私がランタンを手に取って背を向けると、ガブリエルも自分のランタンの火を小さく絞り、静かに一礼した。
五メートルの距離と一本の白線を挟んだまま、私たちの間には今までで一番穏やかな夜の空気が流れていた。
けれど、その静かな夜が明けた七日目の朝――私の平穏を根底から引っ掻き回そうとする実家からの書状が、別邸の門前へと投げ込まれることになるのだった。




